清流への誘い

国立戒壇破折 その〝致命的欠陥〟

顕正会の「国立戒壇論」の〝致命的欠陥〟は「天母山築檀説」

「天母山築檀説」の矛盾追及で顕正会教学部を破折

 顕正会員との法論で軸となるのは「国立戒壇論」。相手が真摯に正しい法門を求めているのならば、顕正会の「国立戒壇論」の誤り、「王法」「国主」「勅宣・御教書」「事の戒壇」「正本堂の意義付け」等を諄々と、相手が納得するまで説明することは大事なことだと思います。しかし、顕正会教学部などの邪知・奸計を駆使して法論の勝ち点を稼ごうとするよこしまな相手には、大聖人が「法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ、御心得候へ」(報恩抄送文)と仰せのごとく、一太刀で破折し切ることだと思います。その利剣とは、顕正会の「国立戒壇論」の致命的欠陥である「天母山築檀説」についての破折です。
 

浅井が示す「天母山築檀説」の文証

かかる国家的に公けに此の大法が信仰され、受時された時、初めて富士山のふもと天母山に大戒壇堂が建立され、戒壇の大御本尊がお出ましになられると歴代法主上人よりお聞きするものであります。 

冨士82号 (昭和45年6月号)

一、事の戒壇は天母山に立つべし。

冨士139号 (昭和50年3月号)

天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。                   

日蓮大聖人の仏法・改訂版

戒壇建立の勝地の条件は〝四神相応〟

日興上人が御教示された戒壇建立の地相の条件

 日興上人は次のように御指南されておられます。

広宣流布の時至り国主此の法門を用ひらるゝ時は、必ず富士山に立てらるべきなり。(中略)駿河するがのくに富士山はこうばくの地なり。一には扶桑ふそうこくなり、二には四神相応の勝地なり。         

富士一跡門徒存知事

 戒壇建立の地形的条件は「四神相応の勝地」でなければならないということです。

四神相応の地相とは

 陰陽道において東西南北に四神(青龍・白虎・玄武・朱雀)が宿る地相を吉相と定めています。東方に青龍(流水)、西方に白虎(大道)、北方に玄武(丘陵)、南方に朱雀(泥地)が具わる地相がその条件です。五十九世日亨上人は「富士日興上人詳伝」において「四神相応の説は陰陽道より出たけれど、仏教家といえどもこれにならうのは世界悉檀であり、生活上においても北半球においてもかっこうの地である」(趣意)と仰せられています。

この画像は日亨上人著「富士日興上人詳伝」よりの引用

〝四神相応〟の勝地は「大石ヶ原」

 日亨上人は「富士日興上人詳伝」において、富士五山の四神相応の適否を検証され、「『大石ヶ原』は適地であり、富士四山(*重須・下条・小泉・西山)の地勢は不適地」(趣意)と御教示されておられます。「天母山」は重須方面に位置し、東の方向に川がなく、四神相応の地ではありません。現在、大石寺がある広大な大石ヶ原の地相はまさに四神相応の地相であり、未来に本門寺となる戒壇建立の勝地です。
 

方位―四神―地勢―「大石が原」の方位の関係は次の通り。

 東()―青竜―流水=御塔川

西()―白虎―大道=狩宿に至る道路

 北()―玄武―丘陵=千居原

 南()―朱雀―泥地=下之坊の下の田尻の湿地帯

顕正会の「天生原」とは「天母山」を中心とした広がりで「大石ヶ原」は含まず

 しかし、浅井昭衛の「天生原」とは、

細井管長は、『天生原』とは大石寺のある『大石ヵ原』であるとこじつけた。(中略)大石寺より東方四キロの小高い岡が『天母山』であり、その麓に広がる曠々たる勝土が『天生原』と呼ばれてきた。このように『大石原』と『天生原』は場所が異なるから、地名も異なったのである

冨士312号(平成2年5-6)

で示されている通り、「『天母山』を中心とした裾野で、『大石ヵ原』を含まない」とするものです。「天母山」は「四神相応の勝地」ではないので、浅井説は邪説であることが明白です。

顕正会は過去に「大石ヶ原」が戒壇建立の勝地と主張

 しかし、浅井は「天母山築壇説」を一貫として主張していたのではなく、過去に、

下条より約半里ほど離れた北方に大石ヵ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである

冨士13号(昭和39年8月号)

と、「大石ヵ原」築壇説を主張していました。この自語相違をどう説明するのでしょうか。
 この浅井の主張は浅井の名前で記載されていないから浅井の説ではないと詭弁を述べた教学部員がいました。浅井の名前がなくても「冨士」は浅井の意向で編集されていますので、この説は「大石ヶ原」が本門戒壇建立の最適地ということを肯定した文証であることは間違いありません

御歴代上人は戒壇建立の地を暗に「大石ヶ原」の意をこめて「天生原」と御指南

「天生原」築壇説は日寛上人が初めてとられてから代々用いられている

日寛上人

事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。

報恩抄文段 下末

日宣上人

今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇御建立ある。

日量上人

本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし。

日應上人

富士山の(ふもと)天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、(ここ)に本門戒壇堂建立あって・・・      

なぜ御歴代上人は実在しない「天生原」を戒壇建立の勝地とされたのか

 「天生原」は実在しない地名です。実在しない地名をなぜ御歴代上人は戒壇建立の勝地とされたのでしょうか。それは時代相にあります。大聖人が本門戒壇の大御本尊を御建立されてから600年近く封建時代が続きました。この時代は武力において最優位にある者が政権を強奪することを繰り返した時代です。時の政権担当する者(国主)の宗教政策が富士門流にどのような圧力をかけてくるかまったく予断が許されず、邪宗徒による襲撃、治安悪化時の盗賊による簒奪等も常に危惧される状況下におかれており、封建時代は大御本尊を秘蔵厳護することが最優先される時代でありました。明治以降は天皇親政となりましたが、国家神道、廃仏毀釈の政策で大御本尊を秘蔵厳護する時代は続きました。このような大御本尊がいつ簒奪されてもおかしくない時代に、「本門戒壇の大御本尊の御在所はいづこであっても根源の事の戒壇」「一国広布の時は事相上の戒壇は大石ヶ原に建立」と内々では言えても、対外的には秘せることが優先されたと拝します。
 そのような時代相において、御歴代上人は戒壇建立の地を暗に「大石ヶ原」の意をこめて「天生原」と御指南されたと拝します。

日達上人が御相伝に基づき「天生原」即「大石ヶ原」であると御指南

 日達上人が甚深の御相承の上から「根源の事の戒壇の義」「天生原即大石ヶ原」と戒壇の法義を明らかにされたのは、政教分離、信教の自由を明確にした現憲法が国民の間に定着し、かつ、創価学会を中心とする広布進展の事相が一時現れたことにより、戒壇の法義を明らかにしてもよい時がきたと御判断された故と拝します。      

歴代上人は天生山とは言っておりません。天生原とは言っていますが。(中略)天生原という説は寛師がとられてから代々言われております。そこにはまた特別な意味があると思います。(中略)それからまた門徒存知事には「四神相応の勝地」ということが出てます。その四神相応の勝地とはすなわち大石ヶ原であります(中略)天生原こそここ(*大石ヶ原)にありと信じることこそ、真実の我々の心である

大日蓮昭和45年9月号 

      

顕正会教学部員への質問

 法華講の方々は顕正会教学部等の邪まな者どもに法論を持ち掛けられたら、彼らに事前の「宿題」として、

1: 「天母山」は四神相応の勝地か?

2: 過去に浅井会長が戒壇建立の地は「大石が原」といっていたが、自語相違と認めるか?

について顕正会としての「公式見解」を求めてはいかがでしょうか。

 逆の立場でいうと、顕正会教学部としては、法華講員を法論で打ち破るためには、「公式見解」を提示することが求められます。「公式見解」が出なければ、法華講員との法論は毎回不戦敗になります。「公式見解」を浅井会長に出すように懇願してみましょう。  

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