清流への誘い

浅井の邪説「不敬の御開扉」を破す

  1. 浅井の邪説「不敬の御開扉」とは
  2. 浅井が御法主上人の権能である御開扉を「不敬」というのは大謗法
    1. 御法主上人の「御内証」は大聖人の「御内証」と同じ、仏法の一切を裁定される
    2. 御法主上人が御開扉を許されるのは御戒壇様の広大無辺の大功徳に浴させるため
    3. 浅井に御開扉を「不敬」と判断する権限などない
    4. 「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」という日興遺誡置文は「後代の学侶」に与えられた御文
  3. 浅井はなぜ平成12年に「不敬の御開扉」と言い出したのか
    1. 浅井は、大御本尊の新奉安殿への御遷座後、「御遺命守護完結」を宣言するも宗門復帰は叶わず、御開扉は永遠に不可能となった
    2. 「不敬の御開扉」と言い出したのは、会員との約束を〝反故〟にするため
  4. 浅井の邪説では、いつ「不敬の御開扉」が行われていたとしているのか
    1. 「御遺命守護完結奉告式」(平成10年4月10日)の「奉告文」により明らかになる邪説「不敬の御開扉」の時期
    2. 浅井の邪説によると、新奉安殿御遷座後の御開扉は「不敬」を解消されている
  5. 御開扉に関する浅井の矛盾
    1. 御遷座の翌年(昭和48年)5月と昭和49年4月に妙信講は「御開扉」を願い出たが、これは浅井の説によると「不敬の御開扉」願いに当たる
    2. 妙信講時代の御開扉(昭和45年10月)は浅井説の「不敬」とならないのか
      1. 「6年ぶりの御内拝」に只々熱涙
  6. 浅井の過去の指導にみる御開扉の大事さ
  7. 御開扉のいただける信心につくことが大事

浅井の邪説「不敬の御開扉」とは

  浅井昭衛は、平成12年2月度総幹部会(平成12年2月24日)で、次のように述べました。

不敬の御開扉は直ちに中止して、早く堅固なる御宝蔵を築き、広布のその日まで、堅く秘蔵し奉るべきであります。

顕正新聞平成12年3月5日号

 この説は現在も顕正会が主張していることです。

浅井が御法主上人の権能である御開扉を「不敬」というのは大謗法

御法主上人の「御内証」は大聖人の「御内証」と同じ、仏法の一切を裁定される

 日蓮大聖人より唯授一人血脈相承を受けられた日興上人をはじめ、嫡々付法の御歴代上人は大聖人の「御内証」を御所持されておられます。御法主上人は大聖人の「御内証」により仏法の一切を裁定なされます。そのことは、次の御書で示されています。

但し(じき)(じゅ)(けっ)(ちょう)付嘱は唯一人なり。(乃至)上首己下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。           

百六箇抄

代代の聖人(ことごと)く日蓮なり。

御本尊七箇之相承

御法主上人が御開扉を許されるのは御戒壇様の広大無辺の大功徳に浴させるため

 御開扉の許可・不許可は御法主上人の権能です。御法主上人は「恋慕渇仰の信心」で御戒壇様にお目通りを願う信者に御戒壇様の広大無辺の大功徳に浴させるために御慈悲心より御開扉をお許しになられます。その御法主上人の御心が「不敬」なのでしょうか。

浅井に御開扉を「不敬」と判断する権限などない

 信徒除名された一在家にすぎない浅井に御法主上人が大聖人の「御内証」より御許可された御開扉を「不敬」と判断する権限などありませんし、その行為は大謗法となります。

「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」という日興遺誡置文は「後代の学侶」に与えられた御文

 「己義」を構えた法主は日興遺誡置文の「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」とあるように、その法主に従わない、その「己義」を批判していいのだ、だから現在の御開扉も「不敬」と言ってもいいのだと切り札を切ってきたかのように、顕正会員の誰もが口にするでしょう。日興遺誡置文は日興上人が「後代の学侶」のために書き残されたものです。在家、しかも信徒除名処分となった者が振りかざす御文ではありません。

浅井はなぜ平成12年に「不敬の御開扉」と言い出したのか

浅井は、大御本尊の新奉安殿への御遷座後、「御遺命守護完結」を宣言するも宗門復帰は叶わず、御開扉は永遠に不可能となった

 平成10年4月5日,御法主日顕上人の御英断により、本門戒壇の大御本尊は正本堂から新奉安殿に御遷座されました。御遷座は、決して浅井の言(浅井のいうところの諌暁書)を用いたものではなく、創価学会の謗法化を鑑みられての御判断です。この一連の流れを横目で見ていた浅井は、御遷座を「還御」と言い換え、平成10年4月10日に「御遺命守護完結奉告式」を急遽行い、「御遺命守護完結」を高らかに宣言しました。しかし、浅井のいう御遺命守護の戦いが終わり、一見、宗門に対する恭順の姿勢を示しても、本部会館の貴賓室に宗門から破門を解除する旨をもった使者は訪れず、顕正会は永久に御開扉はいただけないことが確定しました。顕正会の御奉公とかは大聖人の〝御意〟に叶っていなかったから、破門を解かれず、浅井が会員に約束した御開扉も実現しなかったのです。 

「不敬の御開扉」と言い出したのは、会員との約束を〝反故〟にするため

 浅井は、御遺命守護の戦い(大御本尊の正本堂から奉安殿への御遷座)が完結したら、顕正会員は、宗門に復帰できて、御開扉が受けられると次のように説明してきました。

顕正会も、御遺命守護の御奉公のゆえに登山を妨害されてすでに歳久しい。しかしこの重大な御奉公を命かけて成し遂げたとき、必ず大聖人様の御意に叶って登山が叶うことを、私は確信しております。その時こそ、全顕正会員ともに手を携え、晴れて、涙の中に、戒壇の大御本尊様にお目通りをさせて頂こうではありませんか。

「学会・宗門」抗争の根本原因

 浅井は、御遺命守護の戦いが終わったら御開扉を受けられるという会員との約束を〝反故〟するために、御開扉の意義を否定し、会員が御開扉を望む気持ちを無くさせようと「不敬の御開扉」「大御本尊は広宣流布の達成まで秘蔵」という邪義を言い出したのです。

浅井の邪説では、いつ「不敬の御開扉」が行われていたとしているのか

「御遺命守護完結奉告式」(平成10年4月10日)の「奉告文」により明らかになる邪説「不敬の御開扉」の時期

 平成10年4月10日の「御遺命守護完結奉告式」において浅井が読み上げた「奉告文により、「不敬の御開扉」がいつからいつまで行われていたかという浅井の邪説が明らかになります。

御本仏日蓮大聖人の尊前において、本日ここに、御遺命守護の完結を、報告し奉るものであります。大聖人様――。本門戒壇の大御本尊が、恐れ多くもおう惑・不浄の正本堂にえられ奉ってより今日まで、実に26年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ああついに、本年4月5日の午後4時、大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御かんぎょあそばされました。(中略)あゝ26年の長き歳月――。いまついに御本仏の御威徳により、おう惑は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります。(中略)すでに不敬は解消し、またいかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。いまや後顧の憂いは全くなし。              

顕正新聞平成10年4月15日号 御遺命守護完結奉告式奉告文からの抜粋

 浅井のいう「不敬の御開扉」が行われていたという時期は、奉安殿から正本堂に御遷座された昭和47年10月7日から、正本堂から新奉安殿に御遷座される前日の平成10年4月4日までの約26年間です。
 この説は、邪義は邪義なりに一貫した主張のようにも見受けられますが、浅井が説明しようがない〝事実〟があります。

浅井の邪説によると、新奉安殿御遷座後の御開扉は「不敬」を解消されている

 「御遺命守護完結奉告式」(平成10年4月10日)で浅井は「大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御かんぎょあそばされました」「御本仏の御威徳により、おう惑は根底より清算され、不敬は完全に解消された」「いまや後顧の憂いは全くなし」と高らかに宣言しました。現在、大御本尊は、新奉安殿よりもはるかに堅牢な奉安堂に御安置されています。浅井は新奉安殿を「清浄」と認めましたが、当然、奉安堂も「清浄」と認めざるを得ないでしょう。現在の「御開扉」は「不敬の御開扉」ということはできません。

御開扉に関する浅井の矛盾

御遷座の翌年(昭和48年)5月と昭和49年4月に妙信講は「御開扉」を願い出たが、これは浅井の説によると「不敬の御開扉」願いに当たる

 妙信講は、大御本尊の正本堂への御遷座後、二度にわたり許されなかったとはいえ、「御開扉」を願い出ています。これは「大聖人様の御心に背いての登山」「不敬の御開扉」を願い出たことになるのではないでしょうか。浅井はこのことに関して何の説明もできません。浅井のかわりに教学部員の誰かがきちんと説明できますか。

妙信講時代の御開扉(昭和45年10月)は浅井説の「不敬」とならないのか

「6年ぶりの御内拝」に只々熱涙

 妙信講は、昭和45年10月25日に日達上人より御許可をいただき、6年ぶりとなる総登山をしました。これが妙信講の最後の総登山となりましたが、その御登山の様子を伝えた冨士87号(昭和45年11月号)は、その感激で溢れかえっています。次の画像は、富士87号からの引用です。

 

 この総登山の半年前に日達上人は「国立戒壇の名称不使用」を発表(昭和45年5月3日)されており、浅井の主張では「国立戒壇の名称不使用」=「御遺命違背」となります。浅井の言い回しでいうと、「御遺命に違背した法主の大導師の元に『不敬の御開扉』を受けたことになる」のではないでしょうか。感涙に咽んでいる場合ではなかったのではないですか。

 

浅井の過去の指導にみる御開扉の大事さ

 次の浅井指導はほとんどの顕正会員は知らないと思います。正論を述べています。

 およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として「死ね」と云うことであります。 

冨士271号 (昭和61年8月号)

 およそ総本山大石寺に秘蔵し奉る「本門戒壇の大御本尊」は、御本仏日蓮大聖人の御法魂にてまします。一分の信心あらん大石寺の信徒が、どうして御内拝を願わぬことがあろうか。

冨士271号(昭和61年8月号)

 戒壇の大御本尊様にお目にかかれるのは、あくまでも内拝である。本来ならば、広布の暁まで秘蔵の大御本尊であればお目通りも叶わぬが、不惜身命の信心のゆえに特別に時の御法主に許されて内拝させて頂くのである。

冨士271号 昭和(61年8月号)

 

御開扉のいただける信心につくことが大事

 大聖人は次のように仰せになっておられます。

彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり。参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし。

南条殿御返事

 御在世は「一心欲見仏 不自惜身命」の信心で御本仏にお目通りさせていただくことが大事でした。大聖人御入滅後は、御法主上人の御慈悲により大聖人の御法魂たる本門戒壇の大御本尊の御開扉をいただき、御戒壇様の広大無辺の大功徳に浴することが肝要です。その信仰は、富士の清流たる日蓮正宗以外ありません。

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