- 浅井は「『試練と忍従』の歴史」を「御遺命守護の戦い」の〝アリバイ作り〟のために執筆した
- なぜ浅井は冨士250号「御遺命守護の戦い」の後に冨士271号「『試練と忍従』の歴史」を執筆したか!?
- 浅井は、昭和45年に「御遺命の戦い」を始めるにあたり、昭和44年に初めて〝御遺命歪曲〟を知ったという〝三文芝居〟が必要であった
- 浅井が「昭和44年になって初めて〝御遺命歪曲〟を知った」というのは〝三文芝居〟
- 浅井は「仏法中怨」の仏誠で「御遺命守護の戦い」に立ったのでは!?
- 「『試練と忍従』の歴史」の〝大嘘〟に気づき、顕正会を脱会しましょう
浅井は「『試練と忍従』の歴史」を「御遺命守護の戦い」の〝アリバイ作り〟のために執筆した
なぜ浅井は冨士250号「御遺命守護の戦い」の後に冨士271号「『試練と忍従』の歴史」を執筆したか!?
発行順でみると、「御遺命の戦い」(冨士250号)が昭和59年9月25日、「顕正会『試練と忍従』の歴史」(冨士271号)は昭和61年8月1日となりますが、時系列でみると、「顕正会『試練と忍従』の歴史」は昭和32年8月から昭和44年8月までの活動、「御遺命の戦い」は昭和45年3月から昭和54年11月までの活動を掲載しています。なぜ冨士271号「顕正会『試練と忍従』の歴史」が冨士250号「御遺命の戦い」の後に執筆されたのでしょうか。それは顕正会版「人間革命」とでもいうべき「御遺命の戦い」を〝正当化〟するための〝アリバイ作り〟にありました。
「御遺命の戦い」とは「御遺命の戒壇の建立主になりたいがために正本堂を御遺命の戒壇と認めるように日達上人に迫る池田大作、池田の宗内の発言力、金力に恐れをなして御遺命を歪曲する方向になびく日達上人、宗内でただ一人御遺命に立つ浅井昭衛」という三文芝居〟です。
浅井は、昭和45年に「御遺命の戦い」を始めるにあたり、昭和44年に初めて〝御遺命歪曲〟を知ったという〝三文芝居〟が必要であった
昭和44年末頃、学会による「言論出版妨害事件」が公になり、翌45年になると日を追いごとに世間から疑惑の目が池田創価学会に向けられるようになります。この事件前の池田は学会の著しい教線拡大の勢いに乗った「飛ぶ鳥を落とす勢い」であり、浅井は池田の輝かしい姿を遠くから羨望の眼差しで見つめるしかなす術はありませんでした。浅井はこの事件を契機に池田を蹴落として自らが宗内において台頭する絶好の好機到来と捉えたのでしょう。「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」という書(昭和45年3月提出)でもって自称「御遺命守護の戦い」を開始しました。
「御遺命守護の戦い」を「なぜ昭和45年3月になって始めたか」ということを〝正当化〟するためには、冨士271号「顕正会『試練と忍従』の歴史」において、「昭和44年1月の連合会登山で〝初めて御遺命の歪曲〟を知った」という〝三文芝居〟を思いついたのです。
現在の顕正会が〝御遺命歪曲〟の文証とする「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」は、「御遺命守護の戦い」という〝三文芝居〟を正当化させるために、あえて冨士271号「顕正会『試練と忍従』の歴史」では触れてはいません。どうしても「昭和44年1月の連合会登山で〝初めて御遺命の歪曲〟を知った」という〝虚偽〟が必要だったのです。
浅井が「昭和44年になって初めて〝御遺命歪曲〟を知った」というのは〝三文芝居〟
冨士271号「顕正会『試練と忍従』の歴史」における〝作為的記述〟
冨士271号「顕正会『試練と忍従の歴史』」に正本堂に関しての〝大嘘〟記述が二か所あります。
それは、「正本堂御供養に参加した理由」と「昭和44年になって初めて〝御遺命の歪曲〟を知った」という記述です。この二点を検証していきます。
正本堂御供養に参加した理由
妙信講は昭和40年に宗門の一翼として「正本堂御供養」に参加しましたが、参加した理由を次のように説明しています。
正本堂の御供養には妙信講も参加した。今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、「供養の誠を捧げよ」と、宗内の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである。
冨士271号(昭和61年8月号)
浅井は「正本堂御供養に参加したのはまだ誑惑が顕著ではなかったため」としています。
実際には、妙信講は「正本堂が御遺命の戒壇」であることを認めて御供養に参加した
「顕正会『試練と忍従の歴史』」(冨士 昭和61年8月号)よりも過去に刊行した冨士168号(昭和52年8月号)において、次の通り、「日達上人が正本堂は御遺命の戒壇に当たると説法された」としています。
正本堂の誑惑が顕著ではなかったために正本堂御供養に参加したというのは、〝大嘘〟です。「御遺命守護の戦い」を正当化したいがための〝虚言〟です。
時は昭和40年2月16日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当たる旨の説法をされたのである。
冨士168号(昭和52年8月号)
浅井は「正本堂御供養趣意書」を見ていないはずがない
「正本堂御供養趣意書」にも「正本堂建立は、実質的な戒壇建立」と謳われており、妙信講にもこの「趣意書」は届いており、浅井が「趣意書」に目を通していないはずがありません。
(御供養趣意書とは宗門が御供養を募る前にその御供養の主旨を僧侶、在家に示されるもの)
かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかとなったのであります。(中略)総本山における大建築についての御供養は、これで最後の機会となるでありましょう。千載一隅とはまさにこのことであります。末法万年の外、未来までも人類救済の大御本尊を御安置申し上げるこの正本堂建立の大事業に参加できることは、永遠の誇りであり、大福運であります。
正本堂御供養趣意書(S40年3月26日)
注: 「正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成である」という表現には、直ちに正本堂を御遺命の戒壇と認めるとの意ではなく、正本堂建立時に一国広布を達成したといえる事相が顕れた時、正本堂が御遺命の戒壇となるという〝願望〟がこめられています。
初めて〝御遺命の歪曲〟を知った時
浅井は昭和44年1月の連合会登山で「初めて御遺命の歪曲」を知ったと主張
浅井は、初めて〝御遺命の歪曲〟を耳にしたのは、連合会登山(昭和44年1月7日)参加時の指導会における平沢委員長の「正本堂こそ、三大秘法抄・一期弘法抄に〝時を待つべきのみ〟と云われた事の戒壇である」との発言としています。
午前9時半、大講堂で連合会の指導会が行われた。(中略)妙信講員も出席した。(中略)やがて平沢委員長が登壇した。(中略)彼は重大な発言をした。
冨士271号(昭和61年8月号)
「本年は正本堂の定礎式が行われる。そのため全世界から集められた石が、トラック二はいにもなった。正本堂こそ、三大秘法抄・一期弘法抄に〝時を待つべきのみ〟と云われた事の戒壇である」と。
妙信講員は初めて〝御遺命の歪曲〟を耳にしたのであった。心ある者は我が耳を疑ったであろう。
浅井は昭和44年1月の連合会登山で「初めて御遺命の歪曲」を知ったとの主張は〝大嘘〟「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」を〝宗門誹謗〟に使っている
今の浅井は「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」を〝御遺命を歪曲〟した文証としています。当然、この当時、「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」を知っていたことになります。
昭和42年の池田発言とは
池田大作は、正本堂建立発願式(昭和42年10月12日)の「発誓願文」において、次のように述べました。「大白蓮華」に掲載もされたので、浅井がこの池田発言を知らないはずがありません。
夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究意の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり。(中略)詮ずる所、正本堂の完成を以って三大秘法ここに成就し、立正の二字すでに顕現せんとす。
大白蓮華 昭和42年11月号
昭和43年の日達上人の御言葉とは
此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。
大白蓮華 昭和43年1月号
「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」を〝御遺命を歪曲〟とする浅井の記述
「昭和42年の池田発言」について
同年10月の正本堂発願式では
最後に申すべき事
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究意の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」
と発誓願文を読み上げた。
これを承けて学会発行の書籍も一斉に、正本堂を御遺命の戒壇と断定するようになった。
「昭和43年の日達上人の御言葉」について
そしてついに細井管長も、曖昧さを捨てて大それた表現をするに至る。それが昭和43年1月の
重ねての対決申し入れ書
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華 昭和43・1)
の文である。まさしく昭和47年完成の正本堂を直に〝御遺命の戒壇〟そして〝広宣流布達成〟と言い切っている。
「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」についての宗門の公式見解
「昭和42年の池田発言」について
当時の池田大作は法華講総講頭であり、日蓮正宗信徒の代表でした。正本堂は日蓮正宗僧俗が未来に本門寺の戒壇たることを願望して建立するのですから、日達上人としては、願望として、こうした言動を見守ったということです。
顕正会破折Q&A
「昭和43年の日達上人の御言葉」について
当時の創価学会の折伏の進展は目を瞠るものがあり、すべての宗門人が広宣流布間近の感を抱いていました。当時の宗門僧俗は大きな喜びをもって正本堂の完成を待望していたのです。日達上人は、そのことを見そなわし、正本堂の完成の時は大聖人の御本意に適い、教化・化導の方規も確定し「王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」である旨を仰せられたのです。しかし、正本堂に関する日達上人の御本意は、昭和47年4月28日の「訓諭」に尽きます。
顕正会破折Q&A
「日達上人は、そのことを見そなわし」というのは「日達上人は、正本堂の完成時の御遺命の戒壇と称することができるために大折伏戦に邁進する学会員の願望を受け止められた」ということです。
正本堂の意義は昭和47年の日達上人の「訓諭」がすべて
日達上人が正本堂の意義を示されたのは、昭和47年の「訓諭」がすべてであり、変更されませんでした。日達上人は「後代の誠証」と仰せられています。
日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
大日蓮 昭和47年6月号 「訓諭」の主要箇所
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
則ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成を象徴するものと云うべし。
浅井は「仏法中怨」の仏誠で「御遺命守護の戦い」に立ったのでは!?
「冨士250号」の「御遺命守護の戦い」特集号において次の通りの記述があります。
これまさしく大事の御遺命の破壊である。これを見て、宗門でただ一人、浅井先生は決然と立ち上がられた。
冨士250号(昭和59年8–9–10月号)
「法を壊る者を見て、置いて、呵責し、駈遣し、挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」
「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」
の仏誠のまま、「もし黙っていれば大聖人への大不忠になる」と、すべてを抛って御遺命守護に立たれたのである。
現在の顕正会の主張から鑑みると、浅井が「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」を黙認した行為は「仏法中怨」である
浅井は、昭和42年当時、池田発言に対して「正本堂が末法事の戒壇とは如何なることか」と抗議一つしておりません。同様に、昭和43年当時、日達上人の御言葉にも浅井は何の抗議もしていません。
今の顕正会にとっては、「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」は「御遺命歪曲」の〝重要文証〟として、顕正会教学部が対宗門との法論において振りかざしています。
なぜ、浅井は「「昭和42年の池田発言」「昭和43年の日達上人の御言葉」に対して抗議一つせず、「仏法中怨」の罪を背負ったのでしょうか。それは、当時の学会は教線拡大の勢いが著しく、黙っているしかできなかったからです。
顕正会教学部は「仏法中怨」の浅井を〝糾弾〟すべし
浅井は、池田大作の正本堂建立発願式(昭和42年10月12日)の「発誓願文」も、日達上人の昭和43年1月の御言葉も、当時の学会の勢いに押されて、何の「お伺い」「抗議」もしていません。これは、現在の顕正会の主張から鑑みると、「仏法中怨」に当たるのではないでしょうか。顕正会教学部員は「仏法中怨」の浅井を糾弾することが顕正会の仏法にかなった行為といえます。
「『試練と忍従』の歴史」の〝大嘘〟に気づき、顕正会を脱会しましょう
「『試練と忍従』の歴史」の〝大嘘〟は、「言論事件を契機に池田を蹴落として自らが宗内において台頭する絶好の好機到来」が「御遺命守護の戦い」の〝動機〟だったという〝ネタばれ〟を意味します。顕正会員さんは、「名聞名利の心から自らを御遺命守護の戦いの主人公に仕立て上げる」浅井の真実の姿に気が付いてください。顕正会を一日も早く脱会して、「富士の清流」である日蓮正宗に帰依しましよう。