清流への誘い

浅井城衛の「諫訴」を嗤(わら)う

浅井城衛の「諫訴」は顕正会員の〝ジレンマ〟へのゴマカシ

顕正会会長・浅井城衛は本年の1月度総幹部会で御法主日如上人に次のように直訴しました。

速やかに「不敬の御開扉」を中止し、急ぎ免震構造の堅固なる新御宝蔵を築き、近き広宣流布・国立戒壇建立のその日まで本門戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ること

顕正新聞・令和7年2月5日号

その直訴を2月度総幹部会、3月度総幹部会でも繰り返し、特に3月度総幹部会においては、想定外の巨大地震発生時の奉安堂の耐震想定の甘さ・免震構造の必要性を一見理路整然と述べているかのように見受けられますが、慧妙5月1日号1面において浅井城衛が示した奉安堂の耐震性批判の根拠を一刀両断されています。

慧妙誌において浅井城衛が示した奉安堂の耐震性批判の根拠を一刀両断

浅井城衛がこのような直訴を繰り返すのは、顕正会教祖・浅井昭衛と同じ動機です。

浅井昭衛による顕正会員の〝ジレンマ〟へのゴマカシ

 平成10年4月5日、日顕上人の御英断で、大御本尊様は正本堂から奉安殿に御遷座あそばされました。

同年4月10日、浅井昭衛はにわかに「御遺命守護完結奉告式」なるものを行い、奉告文において

浅井昭衛・御遺命守護完結奉告式奉告文からの抜粋

御本仏日蓮大聖人の尊前において、本日ここに、御遺命守護の完結を、報告し奉るものであります。大聖人様――。本門戒壇の大御本尊が、恐れ多くも(おう)惑・不浄の正本堂に()えられ奉ってより今日まで、実に26年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼(ああ)ついに、本年4月5日の午後4時、大御本尊は、清浄にして堅固なる新奉安殿に、還御(かんぎょ)あそばされました。(中略)あゝ26年の長き歳月――。いまついに御本仏の御威徳により、(おう)惑は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります。(中略)すでに不敬は解消し、またいかなる大地震にも大御本尊様は御安泰。いまや後顧の憂いは全くなし。      

顕正新聞・平成10年4月15日号

と宗門に恭順の姿勢を示し、宗門復帰を告げる御法主上人の使者が訪れることを心待ちにしていましたが、待てど暮らせどその使者は現れませんでした。永久に宗門復帰を閉ざされた浅井昭衛は、大御本尊様を根本崇拝しているのに御開扉をいただけない顕正会員のジレンマをごまかすために、平成12年3月度総幹部会において

「不敬の御開扉を直ちに中止せよ」「いま阿部管長のなすべきことは、急ぎ堅牢の御宝蔵を建設して、近き広宣流布のその日まで、ひたすら戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ることだけである」

顕正新聞・平成12年4月5日号

と御開扉を否定する邪論を主張するようになります。それ以降、「最後の申すべき事」「諫告書」「建白書」等で同じ主張を繰り返します。

 仮に浅井昭衛が「御開扉は金儲け」「大御本尊様は広宣流布の暁まで秘蔵厳護」の主張を日蓮正宗に帰依した時から主張していたとすれば、邪論なりに一貫性があるものと思いますが、破門前の妙信講時代の浅井昭衛は御開扉を次のように最重要な仏道修行であると述べています。

かつての浅井昭衛は「御開扉」を最重要な修行と主張

戒壇の大御本尊様にお目にかかれるのは、あくまでも内拝である。本来ならば、広布の暁まで秘蔵の大御本尊であればお目通りも叶わぬが、不惜身命の信心のゆえに特別に時の御法主に許されて内拝させて頂くのである。                     

冨士271号

およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として「死ね」と云うことであります。 

冨士271号

昭和48年5月11日と昭和49年4月9日にはなんと、〝ニセ戒壇〟と罵倒する正本堂での御開扉願いを申し出ています。(両日とも不許可)

御歴代御法主上人は「御開扉」を許されておられた

 日寛上人寿量品談義

未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇是れ無しと(いえど)も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。 

日忠上人・妙喜寺文書

先々門弟は登山して一閻浮提第一の仏様に御目に懸って、御礼を申上げる筈の事で御座る。

御開扉が許される信心を

 かつての顕正会教祖・浅井昭衛の指導通り御開扉は信徒として最重要な修行です。しかし、顕正会員である限り永遠に御開扉は許されません。大御本尊様にお目通りの叶う日蓮正宗に帰依することが人生における最大の決断です。

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