清流への誘い

顕正会員さん、「顕正寺」をご存じですか!?

ほとんどの顕正会員は「顕正寺」(???)を知らない

 顕正寺は、今から約45年前の昭和53年に建立され、約20年前の平成15年にその存在が消滅しました。
 会員の入れ替わりの激しい顕正会では、古参会員の数は数えるほどで、顕正寺の存在、その意義を知る者はほとんどいないのではないでしょうか。

「顕正寺」は「御遺命守護の戦い」の〝象徴〟であった

顕正寺は昭和53年3月5日に落慶入仏式法要が行われた

 顕正寺の落慶入仏式は顕正新聞昭和53年3月15日号一面に掲載されています。紙面にある見出しは次の通りです。

「護法山顕正寺晴れて落慶御入仏」「大聖人の大慈悲にただ感涙」「後顧の憂いなく大使命果さん」

顕正新聞 昭和53年3月15日号

顕正寺は宗門とは関係なく妙信講が独自に建てた寺

 顕正寺が宗門とは関係なく妙信講独自で建てたことは、次の日蓮正宗の公式見解で明らかです。

元妙信講等訴訟事件の解決について
裁判長より職権による和解勧告が両当事者に対して行われ、双方後記のような和解案を受諾いたしました。(中略)今後元妙信講らが「日蓮正宗」を僭称して妄動し、或いは寺院を建てるようなことが仮りにあったとしても、それは本宗とはもはや何ら関係のないことであります。

大日蓮 昭和52年5月号

浅井は「顕正寺」は「御遺命守護の戦い」の〝象徴〟と説明

 浅井は、昭和53年3月5日の顕正寺の落慶入仏式法要の席上、次のように顕正寺の意義を述べました。

 このお寺は誰のものでもない。日蓮大聖人のものであり、御遺命守護完結のその日まで、私たちがお預かりしているに過ぎないのであります。よって、御遺命守護完結のその日には、この顕正寺は時の御法主上人猊下に御供養申しあげることになっています。(中略)正義を(よみがえ)らせる事(御遺命完結)が顕正寺の唯一の目的である。 

顕正新聞 昭和53年3月15日号

 浅井は、この日の挨拶で、顕正寺の寺院規則を次のように定めたと説明しました。

顕正寺は、日蓮正宗に日蓮大聖人の御遺命たる国立戒壇の正義を蘇らせることを唯一の目的とし、この目的が達せられた時は、日蓮正宗大石寺の時の御法主上人に顕正寺を御供養するものとする。

顕正新聞 昭和53年3月15日号

妙信講員は顕正寺を宗門に御供養することを目的に「御遺命守護の戦い」に邁進

 浅井は「御遺命守護の戦い」の完結を次のように説明しています。
 妙信講員は「御遺命守護の戦い」の完結、顕正寺の御供養、宗門復帰を目標に活動していきました。

(御遺命守護)完結の姿とは、大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊を、汚れた正本堂より元の清らかなる奉安殿に御遷座申し上げることでございます。

顕正新聞 昭和52.5.10-15合併号

浅井が予想もしていなかった大御本尊の御遷座が実現

日顕上人の御英断により平成10年4月5日に大御本尊の御遷座実施

 平成10年4月5日、御法主日顕上人の御英断により、本門戒壇の大御本尊は正本堂から新奉安殿に御遷座されました。御遷座は、決して浅井の言(浅井のいうところの諌暁書)を用いたものではなく、創価学会の謗法化を鑑みられてなされました。

浅井は急遽「御遺命守護完結奉告式」を行い、「御遺命守護完結」を宣言

 浅井は急遽、平成10年4月10日に「御遺命守護完結奉告式」は行いました。その様子は顕正新聞平成10年4月15日号一面に掲載されました。紙面にある見出しは次の通りです。

「本門戒壇の大御本尊ついに還御」「誑惑不浄の正本堂より奉安殿へ」
「御遺命守護の御奉公ここに完結」

顕正新聞平成10年4月15日号一面

 浅井は、御遷座を「還御」と言い換え、「御遺命守護完結奉告式」において「御遺命守護完結」を高らかに宣言しました。しかし、浅井のいう「御遺命守護の戦い」が終わり、一見、宗門に対する恭順の姿勢を示しても、本部会館の貴賓室に宗門から破門を解除する旨をもった使者は訪れず、顕正会は永久に宗門に復帰できないことが確定しました。顕正会の御奉公とかは大聖人の〝御意〟に叶っていなかったから、破門を解かれなかったのです。

「御遺命守護完結」しても、宗門に復帰できず、「顕正寺」の意義を失う

 浅井の〝錦の御旗〟であった「御遺命守護の戦い」が完結しても、顕正会の破門は解かれず、当然、宗門に「顕正寺」を御供養することは不可能となりました。

「御遺命守護の戦い」の〝象徴〟から「浅井路線の敗北」の〝象徴〟へと変化した顕正寺

 浅井の予想外の展開となった「御遺命守護の戦い」の完結は浅井路線の敗北を意味しています。「御遺命守護の戦い」の〝象徴〟から「浅井路線の敗北」の〝象徴〟へと変化した顕正寺の存在は、浅井にとって疎ましい限りとなりました。

浅井は顕正寺を消滅させるための悪智慧を思いつく

まず平成14年に顕正寺の建て替えを発表

 浅井は、平成14年4月度総幹部会で顕正寺の全面建て替えを発表しました。紙面での見出しは次の通りです。

「『新・顕正寺建設に歓喜渦まく』」「地下一階・地上三階、大納骨堂完備」

顕正新聞 平成14年5月15日号

平成15年に完成した新「顕正寺」は「典礼院」と名称変更、「顕正寺」の〝意義〟は抹殺

 新・顕正寺の名称変更は平成15年3月月度の総幹部会で発表されました。

 顕正寺の名称をこのさい改めたいのです。すなわち「冨士大石寺顕正会・典礼院」という名称にしたい。典礼とは儀式ということであります。(中略)顕正会員の亡くなった同志の遺骨を守り、儀式・典礼を行う施設なのであるから、まさしく「冨士大石寺顕正会・典礼院」という名称が、最もふさわしいと私は思っております。    

顕正新聞平成15年4月5日号

典礼院の落慶入仏式は顕正新聞平成15年5月15日号一面に掲載されています。紙面にある見出しは次の通りです。

[冨士大石寺典礼院の御入仏落成式厳修」「『もう後顧の憂いなし』に大歓喜」

顕正新聞 平成15年5月15日号一面

 平成15年5月18日に新「顕正寺」として建設が進んでいた建物の入仏落慶式が行われ、「顕正寺」から「典礼寺」へと名称が変更となりました。名称変更だけでなく、「御遺命守護の戦い」の〝象徴〟だった顕正寺は「ロッカー式納骨施設」に建て替えられ、顕正寺の〝意義〟は抹殺されました。浅井の差定めた「寺院会則」とはなんだったのでしょうか。

会員に都合の悪いことは説明しないのが浅井流

 この「顕正寺」の消滅だけでなく、平成26年に日本の広宣流布達成、国立戒壇建立の予言が外れた理由など、本人がどうにも説明ができないことは、まったく説明をしません。会員は上の幹部より「センセーを信じなさい」と言われるだけで、疑問を封印されてしまいます。顕正会の信仰は一人の悩乱した指導者への盲従です。
 次の大聖人の仰せの通り、「法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬う」ことが、「富士の清流」たる「日蓮大聖人の正系門流」の信仰です。顕正会員さんは、最寄りの日蓮正宗の寺院に襟を正して参詣しましよう。

 末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。(中略)後世を願はん者は名聞名利を捨てゝ、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬うべし。

新池御書
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