日蓮正宗は古来より「富士の清流」と称されてきました
日蓮正宗は古来より「富士の清流」と称されてきました。この由縁は、日蓮大聖人より日興上人へ相承された本門戒壇の大御本尊をはじめとする一切の法義・化儀・信条・広宣流布の大誓願・本門寺の戒壇建立の御遺命は、日興上人より日目上人日目上人より日道上人へと唯授一人の血脈相承によって代々の御法主上人に受け継がれて700年間、微塵も絶えることなく今日に伝えられています。「富士の清流」はこれからも末法万年その流れが絶えることはありません。
私たちは、大聖人以来の血脈付法の御法主上人の御指南に信順して仏道修行に励むことが大切であり、そこに大聖人以来の「信心の血脈」が流れ通うことになります。「清流」に合流することができるのです。
広宣流布達成後は「大石寺」は「大日蓮華山本門寺」と改称
日蓮正宗総本山の三門の山号額は「日蓮正宗総本山」となっています。これは、「大石寺」の寺称は、建立の地「大石ヶ原」の名称から仮に名づけられたことを意味します。広宣流布達成後は「大石寺」は「大日蓮華山本門寺」と改称し、本門寺の本堂は「本門戒壇堂」となります。
本門戒壇の大御本尊御安置の奉安堂は現時における事の戒壇
本門戒壇の大御本尊御安置の奉安堂は現時における事の戒壇です。
日蓮正宗信徒として、御法主上人の大導師の元、本門戒壇の大御本尊にお目通りをいただくことが最高の仏道修行です。顕正会の「遥拝勤行」は、「日蓮を悪しく敬う」(大御本尊に通じない、逆に罪障を積む)行為です。一日でも早く日蓮正宗に帰依しましょう。
清流に合流するには「信心の血脈」が不可欠
「富士の清流」の根幹は大御本尊と唯授一人の血脈相承です。私たちは、大御本尊を根本崇拝し、大聖人以来の血脈付法の御法主上人を「本師」として信伏随従し、所属の末寺御住職を直接的な「手続の師匠」として師弟相対の信心でもって御指導に従うとき、自身の生命に大聖人以来の「信心の血脈」が流れ通うことになります。「清流」に合流することができるのです。
浅井昭衛が会員に教えない日蓮正宗の根本教義「三宝一体」「師弟相対」
なぜ浅井は「三宝一体」「師弟相対」を会員に教えないのか
浅井は「三宝一体」「師弟相対」という日蓮正宗の根本教義を会員に教えないのかというと、顕正会において絶対者として存在し続けるためには、「三宝一体」「師弟相対」は甚だ都合が悪いからです。
「三宝一体」は日蓮正宗の根幹
「三宝」とは
三宝とは、「仏宝」「法宝」「僧宝」という一切衆生が尊敬し供養し帰依すべき対境のことです。
- 「仏宝」とは「久遠元初の御本仏であられる日蓮大聖人」
- 「法宝」とは「事の一念三千の南無妙法蓮華経である本門戒壇の大御本尊」
- 「僧宝」とは「大聖人より唯授一人の血脈を直授相承された第二祖日興上人をはじめ大聖人以来の血脈を相承される御歴代上人」(広い意味では直接的な「手続の師匠」である「末寺御住職」も含まれます)
現在の顕正会は「日興上人が末法下種の僧宝」と会員に教えています。あえて御法主上人が僧宝であることを隠蔽しています。
浅井は、日寬上人の次の「僧宝」に関する御指南があることを知りながら、敢えて会員に教えないのです。
然れば則ち吾が日興上人嫡々写瓶の御弟子なる事分明なり、故に末法下種の僧宝と仰ぐなり。爾来、日目・日道代々咸く是れ僧宝なり。及び門流の大衆も亦爾なり。
日寬上人「三宝抄」
「三宝」は一体である
日蓮大聖人は、
「仏宝・法宝は必ず僧にて住す」(四恩抄)
と仰せられています。
残念ながら顕正会には御書がないためにこの御文を拝することができませんが極めて重要な御文です。
「三宝一体」とは、まさに「本仏日蓮大聖人」(仏宝)、本門戒壇の大御本尊(法宝)、歴代の御法主上人(僧宝)が、その内証において、一体不二の尊体にましますのです。宗祖日蓮大聖人以来、唯授一人の血脈を承継される御歴代上人は内証の上において「三宝一体」のご境涯であり、時の大導師として尊崇されるべきお立場です。
私たちは「三宝一体」であられる御法主上人を「本師」として信伏随従することで唯授一人の血脈から信心の血脈が流れきて、本門戒壇の大御本尊と境地冥合することができるのです。
顕正会の信仰は「三宝一体」ではない
「僧宝」であられる御法主上人を誹謗する顕正会
大聖人は次のように仰せられておられます。
末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。(中略)後世を願はん者は名聞名利を捨てゝ、何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬うべし。
新池御書
まさしく、浅井は御文でお示しの「末代の衆生」の棟梁です。浅井は、日達上人は創価学会の池田の権力に屈して御遺命放棄した、日顕上人、日如上人は唯授一人の血脈相承を受けていない「ニセ法主」である、と「三宝一体」であられる御法主上人を誹謗しています。
御法主上人への誹謗は〝大謗法〟行為
日蓮大聖人は、
凡そ謗法とは誹仏誹僧なり。三宝一体なる故なり。
真言見聞
とも仰せられています。
この御教示も極めて重要な御文です。
「三宝一体」であられる御法主上人を誹謗することは大謗法であり、顕正会には「三宝一体」の信心がないことになります。
顕正会の「遥拝勤行」は罪障を積むだけである
いくら「遥拝勤行」と称する大御本尊に直結するとする勤行をしても、功徳を頂けないばかりか、
かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし。
御振振舞御書
の御教示のごとく、罪障を積んでいくばかりです。
折伏理論解説書「日蓮大聖人の仏法」に「三宝」の解説はない
現在の顕正会の折伏理論解説書「日蓮大聖人の仏法」には「三宝」の説明がありません。しかし、過去には完全に正しい解説ではないものの「三宝」の記述がありました。「三宝」の記述は浅井にとって甚だ都合が悪いので削除したのでしょう。「元隊幹事の顕正会ブログ」の記事「浅井会長の“三宝・僧宝”の説明、変わるのはなぜ?」に詳しく解説されていますのでお読みください。
「師弟相対」とは
「師弟相対」の信心が日蓮正宗の根幹
唯授一人の血脈を伝持される御法主上人に信伏随従し、師弟相対することが大事
日蓮大聖人は
「此の経は相伝に非ずんば知り難し」(一代聖教大意)
と仰せられています。
この御教示も極めて重要な御文です。
私たちは、唯授一人の血脈を伝持される御法主上人に信伏随従し、師弟相対しなければ、日蓮大聖人の仏法を正しく拝することはできません。
日興上人は
「この法門は師弟子を、たゞして、仏になる法門にて候なり」(佐渡国法華講衆御返事)
「当門流に於いては御抄を心肝に染め極理を師伝して」(日興遺誡置文)
と仰せられています。
成仏という最大の果報をいただくためには「師弟相対」の信心が肝要であり、信仰の根幹である御書を正しく拝するには御法主上人の御指南に従わなければならないということです。
「手続の師匠」である御法主上人に信伏随従する
私たちを成仏へと導いてくださる「手続の師匠」は、血脈伝持の御法主上人であられます。日蓮正宗僧俗は、御法主上人の御指南に信伏随従して信行に励むところに、即身成仏がかないます。
所属寺院の御住職も「手続の師匠」にあたる
末寺の御住職は、血脈付法の御法主上人に師弟相対し、御法主上人の名代として、日蓮大聖人の仏法を正しく信徒に伝え、教化育成してくださります。所属寺院の御住職こそ、自分の信心の直接の「手続の師匠」です。
「師弟相対」の信心がない顕正会
草創期以来「師弟相対」を教えない顕正会
草創期の妙信講時代から今日に至るまで、顕正会の機関紙では「師弟相対」とはなんぞや、といった解説は見当たらないと思います。
「師弟相対」の信心を会員に教えないのは、増上慢と強い野心をもつ浅井昭衛が顕正会の師匠は会長である自分だけであり、会長が言うことは絶対であるとしたいがためです。
浅井の「僧侶蔑視」観
浅井には僧侶に敬う気持ちなどさらさらありません。会員に「唯一人の師匠」と浅井自身を称えさせるためには僧侶の存在は邪魔なだけなのです。次の引用は、浅井の「僧侶蔑視」観がよくわかる例です。
「僧侶」などと思うからいけない。「禿人」なんだ。「法師の皮を着たる畜生」なんだ。「法師と云う名字をぬすめる盗人」なんだ。このような「禿人」が、末寺では、「手継ぎの師匠」などと云って、信徒をだまし隷属させている。これは自分の身を養うための口実にすぎない。華道や茶道の「家元制」みたいなものだ。
顕正新聞平成7年1月5日号
「師弟相対」の信心である日蓮正宗に帰依を
顕正会のみなさんは、「師弟相対」の信心の日蓮正宗に帰依するべきです。日蓮正宗に帰依することが、成仏の第一条件です。
「信仰の実践」
日蓮正宗公式ホームページには「信仰の実践」という案内がありますので参考にしてください。