清流への誘い

顕正会副教学部長・浅野恭浩の「活動報告」を嗤う

法論勝利のための〝文証捏造〟があった浅野恭浩の活動報告
顕正新聞令和5年3月5日号に掲載

顕正会教学部員は浅井昭衛の〝番犬〟に過ぎない

顕正会教学部とは

 平成31年に設立された顕正会教学部とは、〝教学〟という語が持つ本来の意味合いである、「純粋に教学を研鑽し、正々堂々と顕正会の正義を訴えていく」という内容をもった組織などではなく、ただ、浅井昭衛と組織を守るためにインチキな手法で日蓮正宗僧俗との法論に勝利したと喧伝する、浅井の〝番犬〟に過ぎないことは当ブログ〝焦燥感〟を強める顕正会教学部員で説明させていただきました。

浅野恭浩の〝金星〟ゲットとの得意満面の活動報告

〝金星〟ゲットは教学部員の評価を高める最高の手段

 顕正会令和5年2月度総幹部会において、副教学部長・浅野恭浩は「日蓮正宗僧侶との法論」(趣旨)との「活動報告」(顕正新聞令和5年3月5日号掲載)を行っています。教学部発足以来、年々減り続ける日蓮正宗御僧侶との法論勝利報告を、さぞ浅野は、〝金星獲得〟とばかりに得意満面で、横に座る浅井の顔色を伺いながら、行ったことでしょう。
 教学部員の「日蓮正宗僧侶との法論勝利」との「活動報告」はすべて、浅井への〝御機嫌伺い〟の〝でっち上げ〟であることは、日蓮正宗僧俗の誰もが知るところです。 今回の浅野の「法論勝利」も〝でっち上げ〟であることは、「活動報告」の〝活字〟に明らかであり、言い逃れはできません。

「訓諭以外に、日達上人や宗門高僧が正本堂を〝御遺命の戒壇〟と認めた発言があったら、直ちに、還俗、脱講するか」という問いかけは、教学部員の〝常套手段〟

 日蓮正宗僧俗に対して、「訓諭以外に、日達上人や宗門高僧が正本堂を〝御遺命の戒壇〟と認めた発言があったら、直ちに、還俗、脱講するか」という〝切口〟を教学部員は「法論勝利」への常套手段としていますが、日蓮正宗僧俗にはまったく通用していません。正本堂の〝意義付け〟は「訓諭」(昭和47年4月28日)以外あり得ないからです。

教学部員が悪用する文証

 次の日達上人の御発言を教学部員は、日達上人が「正本堂を御遺命の戒壇と認められた文証」と〝切り札〟のごとく提示してきます。

此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合の南無妙法蓮華経の広宣流布であります

大白蓮華・昭和47年1月号

 日達上人のこの御発言は、「正本堂を御遺命の戒壇」と認められたものではなく、正本堂完成時に正本堂を御遺命の戒壇と称されるように教線拡大の励む末端の学会員への〝慰撫教導〟の意でもってなされたものです。

「正本堂発願式」(昭和42年10月)における宗門高僧の方々の御発言を「正本堂を御遺命の戒壇と認めた
文証」として提示してきたりします。
 次の引用がその一例です。

阿部信雄・教学部長

宗祖大聖人の御遺命である正法広布・事の戒壇建立は、御本懐成就より六百八十数年を経て、現御法主日達上人と仏法守護の頭領池田先生により、始めてその実現の大光明を顕さんとしている

日蓮大聖人の仏法 改訂版 平成元年初版発行

「正本堂発願式」(昭和42年10月)に宗門高僧の方々がお話になられたことは、「正本堂を御遺命の戒壇と認めた」ものではなく、当時の凄まじい教線拡大の勢いにより甚だ広宣流布近しと受け止められた「感想」にしか過ぎません。

法論勝利のための浅野恭浩の〝文証捏造〟に驚き

 しかして今回、浅野恭浩は、顕正会令和5年2月度総幹部会において、次の通り、「日達上人がズバリ正本堂を本門寺の戒壇と認めた文証がある」として、宗門御僧侶を回答不能にさせたと報告しています。

顕正新聞令和5年3月5日号に掲載

訓諭以降に正本堂を「御遺命の戒壇」と言った文証があったら御遺命破壊であることを認めさせたうえで、昭和49年に細井日達が『正本堂が、事の戒壇、本門寺の戒壇と称して何の不思議があるのでありましょうか」と発言した文証を突き付ける。

顕正新聞令和5年3月5日号

日達上人がズバリ「正本堂を本門寺の戒壇」と認めた文証など存在しない

日達上人の昭和49年の御発言

 当方の調査では昭和49年に「日達上人が正本堂を本門寺の戒壇と称された」文証など見当たりません。日達上人は、昭和49年8月25日の第11回法華講総会において次の通り発言されたことはあります。

我々の民衆の正宗の信心の結晶によって建立せられた、あの正本堂が事の戒壇「本門の事の戒壇」と称して何の不思議があるのでありましょうか

大白法・昭和49年9月16日付

 この引用で明らかなように、日達上人は「正本堂を本門寺の事の戒壇」という御発言は残っていますが、「本門寺の戒壇」とは仰せられていません。
 日達上人は「正本堂が事の戒壇」と仰せられた詳しい御指南を昭和45年にされておられます。

この御本尊在すところは事の戒壇で、この御本尊が事の御本尊である。事の御本尊である故に、この御本尊在すところは事の戒壇でございます。だから、その御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処、何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります。

日達上人猊下御説法(富士学林版) 昭和45年4月27日教師補任式 

かつての浅井は日達上人の「根源の意の事の戒壇」の御指南は正意と受け止めていた

 現在の顕正会では、浅井の次の指導通り、「事の戒壇」とは、広宣流布の暁の「国立戒壇」のみと定義しています。

細井管長は、(中略)正本堂を直ちに「事の戒壇」といわれた。これは明らかにたばかりである。「事の戒壇」は「御宝蔵も奉安殿も・・・」でなく、一つ(*国立戒壇のこと)しかない。            

日蓮大聖人の仏法・改訂版

 しかし、かつての浅井は、日達上人御指南の「根源の意の事の戒壇」を正意と受け止めていました。その証拠は、顕正会のかつての教学研鑽誌である「冨士」に掲載されており、動かしようのない事実です。

申すまでもなく、猊下がたまたま仰せになられた「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。従来宗門に於ては、一天広布の暁に事相に立てられる国立戒壇を「事の戒壇」とし、その実現こそ宗門のいのちをかけた悲願であった。だか、諸々の法相は所対によって異ると、さればいま猊下の仰せ給う「事の戒壇」とは、この広布の時の「事相」に約し給うものでなく、所住の法体の「事」に約し給うたものである。即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである
従って、()っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御意であられる。
此のことは、昨年4月27日の大客殿に於ける御説法に明かである。即ち、

「この御本尊在すところは事の戒壇で、この御本尊が事の御本尊である。事の御本尊である故に、この御本尊在すところは事の戒壇でございます。だからその御本尊が、たとえ御宝蔵にあっても、あるいは唯今奉安殿に安置し奉ってあっても、あるいは今正に出来んとする正本堂に安置し奉っても、その御本尊在すところは何処・何方でも、そのところは即ち事の戒壇であります」と。猊下の御意は以て明かである。
 だが、学会で従来用いて来た「事の戒壇」の意味は宗門古来よりの定義に準じている。その定義を以て「正本堂を事の戒壇」と断定するから仏法の違背というのである。
                        

冨士140号 昭和46年11月号

 教学部員の誰でもいいけど、この浅井の「自語相違」を道理にかなって説明できる者はいるだろうか。「沈黙は金」とばかりに無言でいるしかないよね。困ったセンセーですね。

「本門の事の戒壇」と「本門寺の戒壇」の相違

 「本門寺の戒壇」と「本門の事の戒壇」とはまったく意味合いが違っています。

 

浅野恭浩はわざと日達上人御発言の「本門の事の戒壇」を「本門寺の戒壇」にすり替えた

 浅野恭浩は日蓮正宗僧侶との法論勝利をいう〝金星〟をゲットするために、日達上人の昭和49年8月25日御発言の正本堂が「本門の事の戒壇」と説明された箇所をあくどく「本門寺の戒壇」と御発言されたとすり替え、その〝切り札〟で日蓮正宗僧侶を絶句させたとしています。日蓮正宗僧侶にとっては、突然、日達上人の昭和49年8月25日御発言を示されても、資料を調べて返答するのに時間がかかり、即答できないことは無理もないことです。

浅野恭浩は日達上人がズバリ「正本堂を本門寺の戒壇」と称された御発言の文証を示せるのか

 浅野恭浩よ、昭和49年に「日達上人が正本堂を本門寺の戒壇と称された」文証の〝出所〟がどこなのか、(できるはずがないが)直ちに慧妙編集室に返答せよ。返答無き場合は、日達上人の昭和49年8月25日の御発言の「本門寺の戒壇」を「本門寺の戒壇」と勝手に言い換えた〝トリック〟と断定する。

顕正会員の方々、教学部員のインチキさを正面から見つめ、寝覚めることです。

 全国の顕正会員の皆さん、文証の〝改竄〟をしても、日蓮正宗僧俗との法論に勝ちたいとする顕正会教学部員。不正なことをしないと日蓮正宗僧俗から〝勝ち点〟をゲットできない〝卑怯組〟、それが顕正会教学部です。なぜ〝インチキ〟をするのか。それは顕正会に正当性がないからです。
 日蓮大聖人の正しい仏法を求める顕正会員の皆さん、最寄りの日蓮正宗寺院を訪ねましょう。御住職様がわかりやすく日蓮大聖人の正しい仏法を教えてくださいます。

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