- 冨士250号「御遺命守護の戦い」とは
- 「御遺命守護の戦い」の〝錦の御旗〟を破す
冨士250号「御遺命守護の戦い」とは
冨士250号「御遺命守護の戦い」は顕正会版「人間革命」
池田大作著の小説「人間革命」は「戸田城聖から次代の後継者と認められた主人公の山本伸一が世界広布のために世界を駆け巡る」という山本伸一(池田大作)を賞賛する〝自作自演〟の「栄達物語」ですが、冨士250号「御遺命守護の戦い」も「正本堂を御遺命の戒壇と認めるように日達上人に迫る池田大作、立身出世のために池田の〝走狗〟となる宗務院、池田の宗内の発言力、金力に恐れをなして御遺命を歪曲する方向になびく日達上人、宗内でただ一人御遺命に立つ浅井昭衛」という筋書きの浅井昭衛〝自作自演〟の「自己顕示欲」満々の〝三文芝居〟です。
冨士250号「御遺命守護の戦い」は、浅井に都合がいいように〝事実歪曲〟されている
浅井が書いた冨士250号「御遺命守護の戦い」は、一見時系列的に資料を掲げ、信憑性があるかのごとく見せかけていますが、御遺命の戒壇、正本堂に関しての学会、宗門とのやり取りを自己都合よく脚色し、「日達上人は池田大作に諂い御遺命に違背。浅井親子のみ憂宗、憂国の士」と〝事実歪曲〟した悪書、顕正会員を洗脳するための〝教科書〟です。
〝事実歪曲〟を時系列で挙げることはできるが
冨士250号「御遺命守護の戦い」において、浅井が〝時系列〟で挙げることは、浅井の〝自作自演〟の「自己顕示欲」満々の〝三文芝居〟の〝ハッタリ〟を明らかにする上で大事なことだと思います。
例えて言えば、次の〝事実歪曲〟などです。
- 「今後、正本堂を御遺命の戒壇とは言わぬ」旨の確認書に、学会代表が署名した。
(事実は、「正本堂を三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは現時において断定しない」という日達上人に対する浅井も合意した報告書であった) - 宗務院総監・早瀬日慈と教学部長・阿部信雄が、細井日達に辞表を提出した。
(事実は、日達上人が昭和47年7月6日に妙縁寺に御下向された際、浅井は、日達上人総監と教学部長の辞表を求めましたが、日達上人は「人事に関することは信者が口出しすることはもっての他である。聞けない」とと一蹴されました)
- 妙信講の「講中解散処分」は、妙信講が国立戒壇を主張する故であった。
(事実は、国立戒壇を主張するために、宗務院並びに他の信徒に対して非難中傷、機関紙の大量配布、デモ行進などの行為は「宗門の秩序と統制を乱す行為」すなわち「破和合僧」という重罪にあたると判断されたために「講中解散処分」となった)
〝時系列〟で逐一浅井の〝事実歪曲〟を破折することは、後日行うこととして、今回は、冨士250号「御遺命守護の戦い」における許しがたい〝事実歪曲〟を破折したいと思います。
最大の〝事実歪曲〟は日達上人の御指南に関すること
「日達上人は浅井に御内意を打ち明けられた」「日達上人は正本堂の意義を述べられた訓諭の訂正文を浅井に提出した」という〝虚偽記述〟が最大の〝事実歪曲〟
冨士250号の「日達上人は浅井に御内意を打ち明けられた」と記述した箇所
日達上人が「昭和45年4月3日のお目通りの際、浅井に御内意を打ち明けられた」とする記述は次の五か所です。
正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです。
冨士250号 「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」(昭和45年3月25日)の[解説]
猊下が思いもかけぬ御本心を吐露されたことは感激であった。「御遺命の本門戒壇とは広布の時の国立であり、場所は天母ヶ原である」と。
冨士250号 「細井管長への手紙」(昭和45年4月5日)の[解説]
御法主上人ははっきりと
冨士250号 「臨時班長会における講演」(昭和47年4月17日)
「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇ではない。究極の戒壇は国立戒壇であり、天生山にたつことは決まっている」
と仰せられたのです。
されば猊下には昭和45年4月3日、恐れ多きも小輩等にお目通り仰せ付けられ、胸奥の御本意を仰せ給うたのであります。その御指南に云く、
冨士250号「池田会長への公場対決申し入れ書」(昭和47年4月28日)
「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇には非ず、御遺命の戒壇は国立戒壇にして場所は天生山なり」と。故に小輩等は此の御本意を一命にかえて守護し奉るを誓ったのであります。
昭和45年4月3日のお目通りの際、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を御自ら手にされ、「よくぞ書けたり、これぞ本宗伝統の法義、宗開両祖の御金言のまま」と称賛せられ、続いて「正本堂は最終の戒壇ではない、事の広布の時の戒壇は国立である。天母山に立つのは当り前」と仰せ給い、・・・
冨士250号 細井管長への公開御伺書(昭和50年8月26日)
上記の五か所のうち、四か所が「天母山」(天母山と天生山は同意)、一か所が「天母ヶ原」(天母ヶ原と天生原は同意)となっています。「天母山」と「天生原」とではまったく意味合いが違ってきます。日達上人だけでなく、御歴代上人も戒壇建立の勝地は「天生原」とは仰せになられていますが、「天母山」とは仰せられていません。日達上人が「戒壇建立の勝地」を「天母山」と仰せられることは〝絶対にあり得ないこと〟です。
「日達上人が正本堂の意義を述べられた訓諭の訂正文を浅井に提出した」とする記述
「日達上人が正本堂の意義を述べられた訓諭の訂正文を浅井に提出した」とする記述は、次の二か所にあります。
細井管長また正本堂を御遺命と定義した訓諭を訂正すると約されたのであった。
冨士250号 「はじめに」
問い詰められて、細井管長は
冨士250号 「細井管長への返書」(昭和47年7月4日)
「実は、あの訓諭についてはまずい所がある。『即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂』という部分はまずかった。あれでは最終の戒壇を前以て建てたことになってしまう。その前の『…現時における事の戒壇なり』で止めておけばよかったが、付け加えられてしまった」
と、暗に学会の意を受けた宗務院がこれをなしたように云われた。
私は単刀直入に申し上げた。
「それでは、ぜひ訓諭を御訂正下さい」
さぞや憤られるかと思ったが、事ここの及んで、細井管長はすでに心を決められたのか
「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとは云えないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』に載せましょう。そしてその文章は、前以て浅井さんに見せます」
と約束され、・・・
浅井は、日達上人が「訓諭を訂正された」という〝虚偽事実〟を〝確定した事実〟のごとく、その後も述べています。
細井日達が妙縁寺に下向。対論の結果、『訓諭』の誤りを認めた。そして後日、訓諭の訂正文を私に手渡した。
顕正新聞 令和元年11月5日号
なぜ浅井は日達上人が浅井に御内意を打ち明けられたと〝虚言〟を述べたのか
浅井が日達上人に反逆するに至った動機
浅井は、冨士250号において、「なぜ日達上人に反逆するにに至ったか」という動機を、次のように述べています。
而して、いま時の法主が、国立戒壇を否定し正本堂を御遺命の戒壇と断定されたのである。不審とはいえ、あるいは自分の未だ預り知らぬ秘奥の法門があるかも知れない、もし我が不明にして本門戒壇の重大法義を誤り解したなら、我が身に思い罪障を負うだけではない、多くの講員を悪道に堕とすと恐れ、躊躇したのであった。
冨士250号 「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」(昭和45年3月25日)の[解説]
しかしあまりにもいぶかしい。この上は大聖人に聞き奉り、歴代先師上人の御指南を拝する以外なしと、改めて御書四百余扁を、満身の毛孔から汗の吹き出る思いを以て拝読した。法水瀉瓶の相伝家の有難さ、本門戒壇についての先師上人の御指南は、一糸乱れず異口同音であった。
かくて見れば、まさにいま七百年来の大事の御遺命が、あろうことか時の法主の権威を以て、曲げられんとしているではないか。このような非常事態が、広布の前夜には出来するのであろう。かような事態を慮り、二祖日興上人は御遺誡に
「時の貫主たりといえども、仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と記し置かれたのである。(中略)
もう恐れ憚る何ものもなかった。ただ大聖人の御意に叶わんとの思いだけであった。
浅井は、日達上人が「正本堂を御遺命の戒壇と断定された」と決めつけています。日達上人の御判断は「御書根本」で鑑みると「己義」であり、日興上人は「己義を構える法主には従う必要はない」と仰せだと言い出し、御法主上人に反逆する行動を起こしていきます。
- 日達上人が「正本堂を御遺命の戒壇と断定された」ことなど一度もありません。
- 「御書根本」で判断するというのは、一見正当な判断のように印象付けられますが、御書は読み手の解釈の仕方でいかようにも捉えられます。あの学会がいい例です。「御書四百余扁を拝読して法主の己義がわかった」というのは「御書の勝手読み」であり、この読み方こそ〝己義〟です。日興上人は遺誡置文において「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝し」と仰せられています。御法主上人の御教示を根本にしてこそ御書における大聖人の御真意を拝せるのです。
- 日興遺誡置文の「時の貫主たりといえども、仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」という御文は「後代の学侶」のために書き残されたものです。在家、しかも信徒除名処分となった者が振りかざす御文ではありません。この御文の真意について日亨上人は「富士日興上人詳伝」に「かならず永久に続くべきものではない」「時代はいかように進展しても、無信・無行・無学の者がにわかに無上位(*大導師位)に昇るべき時代はおそらくあるまい。一分の信あり、一分の学ある者が、なんで仏法の大義を犯して勝手な言動をなそうや。(中略)いかに考えても、偶然に、まれに起こるべき不祥事であるとしか思えぬ」と仰せられています。寛尊以前の、本宗教学が整理体系化されておらなかった上古の時代などに、ごく稀に起こりうることに対する備えであって、「かならず永久に続くべきものではない」すなわち「日常の通例と考えるべきではない」という意味です。
浅井の動機だけで妙信講員を〝謀反〟に道連れにするには無理があった
浅井が、御法主上人に「御遺命歪曲」の罪ありとして〝謀反〟を企てようとした際、〝謀反〟を起す理由は「御書四百余扁拝読した上の判断」とするだけでは、妙信講員を脱落者なく〝謀反〟に駆り立てる〝求心力〟とならないと判断したのでしょう。
浅井は「日達上人より御遺命に関する御内意を打ち明けられた」とする〝虚偽事実〟を「御遺命守護の戦いの〝錦の御旗〟」にした
浅井は「御遺命守護の戦い」の〝錦の御旗〟に成り得る〝虚偽事実〟を思いつきました。
「池田大作と池田の〝走狗〟の宗務院の圧力により御遺命歪曲をせざるを得なくなってしまった日達上人は、宗内で毅然と御遺命守護のために立ち上がった浅井を御信頼され、日達上人の『御内意』すなわち『御遺命の事の戒壇は国立であり、天母山に建立』を打ち明けられた」とする創作です。
日達上人の「御内意」は、日達上人の「御内証」より発せられたもので、日達上人の「御内証」は大聖人の「御内証」と同じ。すなわち、「御遺命守護の戦い」は「仏意仏勅」に適った戦いであるという〝行動原理〟を確立しました。「日達上人より御遺命に関する御内意を打ち明けられた」とする〝虚偽事実〟は「御遺命守護の戦い」の〝錦の御旗〟になりました。
「御遺命守護の戦い」の〝錦の御旗〟を破す
日達上人が浅井に御内意を打ち明けられることは絶対にあり得ない
次の日達上人の御言葉でもって、日達上人が浅井に御内意を打ち明けられることが絶対あり得ないことが明々白々となります。日達上人が浅井を「真意を伝えることができる憂宗の信徒」とは見なされておられませんでした。
浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、〝私が浅井父子だけに内意を打ち明けた〟と宣伝しておるのであります。
大日蓮 昭和50年9月号
浅井個人の考えに私の考えであるというレッテルを貼られては、私としてはたまったものではありません。しかもその内容が私が公の席で、手続をふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨と正反対であるというのですからなお許せません。云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになってしまいます。そんなことがあるはずのないことは常識ある方々には、すぐわかってもらえると思います。仮に、私が本心を打ち明けるにしても、よりによって、講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置けない人物に打ち明けようのないことは自明の道理でありましょう。(中略)
何も知らない人達を〝国立戒壇こそ法主の内意である〟などとあざむくことは卑劣この上ないやり方であり、宗門史上かつてない猊座に対する冒涜であると思うのであります。(中略)
浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えてください。
「日達上人が昭和45年4月3日のお目通りの際、浅井に御内意を打ち明けられた」とする浅井の邪説を破す
冨士250号において「御内意を打ち明けられた」記述は五か所。四か所が「天母山」、一か所は「天母ヶ原」
上記「冨士250号の『日達上人は浅井に御内意を打ち明けられた』と記述した箇所」という項目で、浅井が冨士250号において「御内意を打ち明けられた」とする記述が五か所あることを示しました。その中で、四か所が「天母山」、一か所が「天母ヶ原」となっています。「御内意を打ち明けられた」とする記述は、日達上人の尊厳にかかわる重要な証言となりますが、このように食い違いがあります。「山]と「原」ではまったく意味合いが違ってきます。
御歴代上人は戒壇建立の勝地は「天生原」と御教示
御歴代上人は暗に「大石ヶ原」の意を含ませて、戒壇建立の勝地は「天生原」と御教示されておられます。「暗に『大石ヶ原』」というのは、封建時代、廃仏毀釈の戦前の時代において、大御本尊を秘蔵厳護するため「大石ヶ原」を文意に沈める必要があったがためです。
事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。
日寛上人 報恩抄文段
今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す。此の寺則ち霊山浄土也。(中略)広宣流布の時は天子より富士山のふもと天母ヶ原に本門戒壇御建立ある。
日宣上人
本門寺に掛け奉るべしとは、事の広布の時、天母原に掛け奉るべし。
日量上人
富士山の麓に天母ヶ原と申す曠広たる勝地あり、茲に本門戒壇堂建立あって・・・
日應上人
浅井の「日東上人、日隠上人が『天母山』築檀説を述べられている」との主張は〝誤り〟
日東上人は「天母山」築檀説は「辰抄の如きなり」と、本宗の相伝ではなく、日辰(*京都要法寺の僧)の言葉によるものであると御指南されています。
順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤も辰抄の如きなり。
日東上人
日達上人は、日穏上人の「天生山」築檀説を「あまり信用ができない」すなわち「日穏上人の説ではなく、日穏上人は『天生山』築檀説のあることを紹介したとの意」とされています。
ただ一つ異例があります。それは第三十五代日穏上人歴代上人が「一期弘法抄」を引かれ、
大日蓮昭和45年9月号 「富士学林研究科の砌」(昭和45年6月28日)
「戒壇の地を富士の天生山に選び置き、板本尊及び戒壇堂の額御真筆あり」
ということを書いております。これは意味がはっきりしませんね。(中略)
「及び戒壇堂の額御真筆あり」これはちょっとおかしいですね。(中略)どうもその意味は、戒壇堂の真筆ありというところからくると、あまり信用できないと思います。
日達上人も戒壇建立の勝地は「天母山」でなく、「天生原」=「大石ヶ原」と御指南
日達上人は、甚深の御相伝を踏まえ、「天生原」=「大石ヶ原」と御明示あそばされた。
歴代上人は天生山とは言っていません。天生原とは言ってますが。(中略)四神相応の勝とはすなわち大石カ原であります。(中略)天生原こそここ(大石ヶ原)にありと信じることこそ、真実の我々の心である。
昭和45年6月28日 富士学林研究科の砌
日達上人が「「天母山」築檀説をとられるはずがない他の論拠
日達上人が「天母山」築壇説をとられるはずがあり得ない論拠を二重、三重にあげます。
- 日達上人は第一回正本堂建設委員会(昭和40年2月16日)において「しかし、じっさいには将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたならば、天母山になんらかの建物を造ってもよいと思われます」(大白蓮華昭和40年3月号)と御指南されています。
この地というのは大石ヶ原のことで、戒壇建立の勝地ではない天母山には「なんらかの建物」すなわち「戒壇堂」以外の〝記念碑〟のようなものを建立すつと仰せです。天母山はその程度の〝軽い存在〟なのです。 - 日達上人の浅井との「昭和45年4月3日のお目通り」の一か月後の第33回創価学会本部総会(昭和45年5月3日)において日達上人は
「今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔になるため、今後、本家ではそういう名称を使用しないことといたします」
と御指南されました。(「国立戒壇」という従来使用してきた「御遺命の事の戒壇」の〝代名詞〟を不使用にするだけであり、「御遺命の事の戒壇」建立の意義・目標はかわっていません。)
浅井の言う通りならば、日達上人は、天下に向かって嘘をつき、日蓮正宗は世間をあざむいたことになります。
「浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えてください」(大日蓮 昭和50年9月号)が、日達上人の〝御本心〟なのです。
日達上人が浅井の「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を〝讃嘆〟されたという〝虚偽事実〟を破す
「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の〝骨子〟とは
浅井の「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」は浅井が「護法の一念を四万二千余字にこめ」というようにかなりの長文です。しかし、その〝骨子〟は次の引用にあると思います。
こと此処に及んで止むを得ず、恐々としていま先師上人の御指南を窺うに、事の戒壇に就き、時に当って重要なる次の四つの義を拝す。即ち、
冨士139号(昭和50年3月号)
一、事の戒壇は、事の広宣流布の暁を待って立てられる。
一、事の戒壇は、国立戒壇である。
一、事の戒壇は、本化聖天子の発願に依る。
一、事の戒壇は、天母山に立つべし。
(中略)
しからば本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに「無辺行・日興上人の垂迹・本化聖天子」と。そしてその時、「御座主は日目上人」と。
日達上人が「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を〝讃嘆〟されるはずがない
「一、事の戒壇は、事の広宣流布の暁を待って立てられる」を破す
浅井は日達上人からの直接電話で日達上人が正本堂の意義に関して「正本堂を以て最終の戒壇とする」と聞いた(冨士250号「共産党が衆院議長に提出した質問主意書」(昭和45年4月8日)の「解説」)としています。日達上人は昭和45年4月の時点で「正本堂の意義」をまだ明らかにされていません。「正本堂の意義」を明らかにされたのは昭和47年4月28日の訓諭が初めてであり、その後訓諭は訂正されていません。
正本堂は一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む、現時における事の戒壇なり。すなわち正本堂は、広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては、いまだ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。
大日蓮昭和47年6月号 昭和47年4月28日訓諭(正本堂の意義)
昭和47年に完成した正本堂は「現時における事の戒壇」であり、広宣流布の「事相上の戒壇」との意義付けは未来にあると仰せられいます。正本堂を即広宣流布の「事相上の戒壇」と意義付けておられません。
「一、事の戒壇は、国立戒壇である」を破す
日達上人は、広宣流布の「事相上の戒壇」が必ず「国立戒壇」でなければならないとは仰せられていません。
次の「引用」の「今将に世間で噂されておる国立戒壇などという言葉に惑わされず」と仰せられているのは、「世間では、日蓮正宗、創価学会は、憲法を改正し、日蓮正宗を国教化を目指しているという謬論に惑わされずに」という意と拝します。
今将に世間で噂されておる国立戒壇などという言葉に惑わされず、ただ広宣流布の時に始めてできる戒壇であります。それが王立であろうが国立であろうが民衆立であろうが、全ての正信の信者が集まって戒壇の大御本尊を拝し奉る処こそ、何処でも事の戒壇でございます。富士山本門寺とは、当山であります。当山が大石寺と称しているのは、未だ広宣流布せざる間は暫く大石寺と称しているのであります。時来らば本門寺と名乗るべきであります。
日達上人猊下御説法(富士学林版) 昭和45年4月6日 御虫払い法要
「一、事の戒壇は、本化聖天子の発願に依る」を破す
日達上人が「事相上の戒壇」の発願主を時の天皇に限定されていないのは、次の「引用「で明らかです。「御書に照らし経文に照らすときは広宣流布の時には転輪聖王が出ます」と仰せられています。
天皇が戒旦建立を許可し一切の人々がそれによって戒旦を建立するということは、日本では、もう天皇の力がないぢゃあないかというようなことをいうのでございますが、広宣流布の聖王は即ち広宣流布の時の聖王は転輪聖王であるのでございます。必ずしも今の天皇陛下が建立主となるべき時の天皇とはきまっておらない。又大聖人も、そうはおっしゃて、おらないのであります。又此の御書に照らし経文に照らすときは広宣流布の時には転輪聖王が出ますということになっておるのでございます。そのときの聖王こそ、天皇であれ、誰であれ、兎に角為政者である、その時の為政者が転輪聖王となって戒旦建立の大将となって現はれれば、よろしいのであります。
大日蓮 昭和34年9月号
浅井は広宣流布の「事相上の戒壇」の発願主としての天皇は「日興上人の垂迹」であるのが本宗の〝言い伝え〟だとしています。浅井は〝言い伝え〟など信じないと言っていたのではないでしょうか。論拠を、御書、本宗の御歴代上人の残された書物で示せなけれは〝謬論〟であることが確定します。
俗にいう〝口伝え〟などということではないのです。もしそういうものだったら、長い年月の間には変化してしまうじゃないか。
顕正新聞 平成5年1月5日号
「一、事の戒壇は、天母山に立つべし」を破す
上記「日達上人も戒壇建立の勝地は「天母山」でなく、「天生原」=「大石カ原」と御指南」「日達上人が『天母山』築檀説をとられるはずがない他の論拠」で詳細に破折していますのでご参照ください。
結論
日達上人が「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を〝讃嘆〟されるはずがないことを検証してきました。浅井の邪説を正当化するために日達上人を利用するとは、御法主上人の尊厳を貶める〝大謗法〟です。
「日達上人が浅井に訓諭の訂正文を示された」という浅井の邪説を破す
日達上人が訓諭(昭和47年4月28日)でお示しの正本堂の〝意義付け〟は不変
日達上人が「浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えてください」(大日蓮 昭和50年9月号)と仰せの通り、日達上人が訓諭(昭和47年4月28日)でお示しの正本堂の〝意義付け〟は不変です。
日達上人が浅井に訓諭の訂正文を示されたという事実はありません。
昭和47年7月6日の日達上人妙縁寺御下向時の日達上人の御指南を浅井は〝事実歪曲〟した
冨士250号において浅井は、昭和47年7月6日の日達上人妙縁寺御下向時に次のように「日達上人が訓諭の訂正文を示されることを約束した」と記述しています。
冨士250号 「細井管長への返書」(昭和47年7月4日)
「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとは云えないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』に載せましょう。そしてその文章は、前以て浅井さんに見せます」
と約束され、・・・
浅井は、この記述において日達上人が「訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文」を示させることを約束したとしています。この〝訓諭の訂正〟は浅井が事あるごとに喧伝するため、「嘘も百回言えば真実」のごとき響きを与えてしまいますが、これは浅井の巧みな〝虚偽事実〟です。
〝藤本メモ〟で見る昭和47年7月6日の日達上人妙縁寺御下向時の日達上人の御指南
妙縁寺御下向(昭和47年7月7日)で浅井親子にお目通りを許された際の日達上人の御発言は、藤本庶務部長(当時)が将来のために記録(いわゆる藤本メモ)にとっておかれました。訓諭に関する御発言は次の通りです。
「訓諭は私が出した。私の責任だ。(中略)私が責任をもってやっていることだ」
「とにかく、誤解を招いたのは表現が充分でなかった。誤解のないよう、改めて解釈を出して8月号の『大日蓮』に載せるからそれを読んでほしい。くれぐれも暴力は止めて、私に従ってほしい」
「未来のことはわからないではないか。とにかく、私の責任で訓諭は出したし、あの一言を入れたのも私の責任だ」
藤本庶務部長(当時)のメモ
日達上人は浅井の言うような「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとは云えないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』に載せましょう」とは仰せられていません。日達上人は「内容を打ち消す解釈文」ではなく、訓諭を正しく拝せる「解釈文」を浅井に示すと仰せになったのです。
日達上人が浅井親子に示されたという「昭和47年4月28日の訓諭について」という一文
日達上人が浅井親子に示されたという「昭和47年4月28日の訓諭について」という一文を浅井は「訓諭の訂正文」であるとして、その全文を冨士250号に掲載していますが、一読すれば、〝訂正文〟ではなく〝解釈文〟であることは誰の目にも明らかです。この一文に「正本堂が完成し戒壇の大御本尊ここにましまさば、此の処即ち本門事の戒壇であれば、現時の人々は此処に於て懺悔滅罪し、即身成佛の本懐を遂げ、・・」と「正本堂が根源の意の事の戒壇」と日達上人が御指南されておられますが、浅井親子は何の反発もしていません。浅井の主張では「事の戒壇」とは「広宣流布の暁の御遺命の戒壇」のみなのでは?浅井は何らかの反論ができるでしょうか。
「昭和四十七年四月二十八日の訓諭について」
正本堂は今や完成に迫っている。
正本堂建立の趣旨は正しく広宣流布達成の願望のもとに工を進めて来たのである。然し広宣流布は佛勅の「我滅度後後五百齢広宣流布於閻浮提」であるから、一閻浮提に広宣流布するのは甚遠広大で、相当の長年月を要することであろう。或いは近き将来急速に達成するかも知れないが、我々の凡智に於ては推知することは出来ない、ただ佛智に依る外はない。
我が戒壇の大御本尊は本門事の戒壇の根源なる故に、戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇である。
即ち戒壇の大御本尊が御宝蔵に安置せられていた時は、御宝蔵が本門事の戒壇であったのである。
終戦後創価学会により信徒の増加を来し、広宣流布へ一歩前進せるにより、昭和30年11月23日戒壇の大御本尊が奉安殿に安置せられて、奉安殿が本門事の戒壇となったのである。
さらに本宗の信徒が、驚異的に倍増し広宣流布の達成へ一路邁進し続けているが、正本堂建立完成の時は戒壇の大御本尊を安置し奉るのであるから、正本堂は現時に於ける本門事の戒壇となるのである。
しかし、「一期弘法付嘱書」、「三大秘法抄」の事の戒壇は甚深微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのである。
我が大日蓮華山大石寺が建立せられてより本門寺の戒壇建立を実現せんとすることは、本宗緇素の大願であったのである。
正本堂は今ただちに本門寺の事の戒壇ではないとしても、少なくとも大石寺建立後六百八十二年にして、信徒は日本国内のみならず世界の各国に同志を得てその数は、にわかに数えることは出来ない。即ちそれだけ広宣流布せられ流行中に於ける相当の広宣流布達成とも云えるのである。故に正本堂は「一期弘法付嘱書」、「三大秘法抄」の意義を含む現時における事の戒壇なりと申す所以である。
正本堂は未来広宣流布達成の暁の本門寺の戒壇を願望したところの大殿堂ではあるが、未だ広宣流布達成とは申されないほど謗法の徒が多い。故に安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉ると申したのである。
正本堂が完成し戒壇の大御本尊ここにましまさば、此の処即ち本門事の戒壇であれば、現時の人々は此処に於て懺悔滅罪し、即身成佛の本懐を遂げ、さらに一歩を進め謗法を折伏して一閻浮提に広宣流布の流溢することを僧俗一結して今日より新たに決心すべきである。
昭和47年7月12日
「昭和47年4月28日の訓諭について」という一文が大日蓮8月号に掲載されなかったのは、学会の圧力によるものではなく、日達上人が浅井親子の説得を断念されたため
浅井は、次の通り、大日蓮8月号に「訓諭の解釈文」が掲載されなかったのは、学会の圧力がかかったからだとしています。
訓諭の訂正文の発表を、学会は座視していなかった。北条浩副会長(当時)は総本山へ車を飛ばし、細井管長にこれを思い止どまらせるべく、強訴した。
冨士250号「総幹部会における講演」(昭和47年7月26日)の「解説」
「大日蓮8月号に『訓諭の解釈文』が掲載されなかったのは、学会の圧力がかかったから」というのは事実と異なります。
浅井は、冨士昭和47年8月号において、妙縁寺御下向の際の内容を歪曲し、あたかも、日達上人がウソの訓諭を公表し、全信徒をあざむいたかのごとき記事を掲載しました。日達上人の御身を賭してなされた真心の御指南を浅井一派に都合のいいように変えたのです。されば〝解釈を出してくれれば自分たちはおとなしく引き下がるというのは、まったくの嘘であったか〟という事実がはっきりし、日達上人は深くお考えになり、「こういうことでは、もはや解釈など出せない」
と御決意になられ、大日蓮8月号に「訓諭の解釈文」を掲載することを取りやめになられました。