日蓮正宗では「天母山築壇説」は否定されている
昭和45年3月に「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を宗門に提出し、宗門攻撃を開始する
浅井昭衛は「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」という自称・諌暁書の中で、次のように「天母山築壇説」を主張しました。
二祖日興上人の御遺命厳として、天母山をついさして定め給うと聞き奉る。(中略)寛尊・本尊抄の講義に云く、「順縁広布の時は富士のふもと天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を立て岩本に二王門を立つ等なり」(忠師聞記)と。
富士139号「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」
「天母山築壇説」は要法寺系の邪義であるため、宗門から破折される
「天母山築壇説」が邪義であることは、当ブログ「国立戒壇破折 その〝致命的欠陥〟」「『正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う』の〝奇異〟」をご参照ください。
浅井昭衛は「天母山築壇説」を肯定する御歴代上人の文証を漁ったが・・・
「天母山築壇説」はどの御歴代上人も取られていないこと、「天母山」は〝四神相応の勝地〟でないことから、明らかな邪説なのですが、浅井昭衛はご歴代上人のご著作の中に「天母山築壇説」が〝正当〟であるという論拠を求めて、漁っていき、次のように「天母山築壇説」の〝正当性〟を述べています。
〇 寛尊は報恩抄文段には〝天生原〟と仰せられながら本尊抄の御講義には〝天生山〟と仰せられている。(中略)寛尊の講義を筆記された聞書数本を見ればことごとく〝天生山〟である。
〇 三十五代日隠上人は五人所破抄一覧に〝戒壇の地を富士山の天生山に撰びおき〟と仰せられているが、ここだけではない。ほかにも御筆記に〝大石寺も未だ真実の本国土にあらず、天母山はこれ本国土なり、しかれども肝要の本尊未だ住し給わず〟と仰せられている。
富士250号
〇 この「本尊抄の御講義」とは日寛上人の御著作ではなく、二十九世日東上人の「観心本尊抄聞書」、三十世日忠上人の「忠師聞記」を指します。両上人が日寛上人の御講義を記録されたものです。その「観心本尊抄聞書」では、日東上人が「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤も辰抄の如きなり」と、天生山戒壇説は要法寺系で造仏家の日辰の言葉によるものであり、本宗の教義ではない、と明らかに仰せられています。日東上人は天母山戒壇説を御指南されていません。同じ時代に会玄という方がおられたが、その方も寛師の「観心本尊抄」の解釈も日東上人と同じです。三十世日忠上人の「忠師聞記」も同様です。
「辰抄」というのは要法寺日辰が表した御書抄(報恩抄下)のことで、原文では「戒壇堂」ではなく「本門寺の本堂・御影堂」となっています。「本門寺の本堂」は「戒壇堂」と同意ですから、日東上人、日忠上人が「戒壇堂」と述べられても、意味合いはかわりません。
〇 日達上人は、日隠上人の「天生山築壇説」は、文献に真書がなく、「戒壇堂の額御真筆あり」という北山の謬論も混入されており「おかしい」「どうも信頼できない」と断定されておられます。
歴代上人は天生山とは言っておりません。天生原とは言ってますが。ただ一つ異例があります。それは三十五代日穏上人が「一期弘法抄」を引かれ、
「戒壇の地を富士の天生山に選び置き、板御本尊及び戒壇堂の額御真筆あり」(富要四―205頁)
ということを書いております。これは意味ははっきりしませんね。「戒壇の地を天生山に撰び」それはまあ意味はわかる。次に、「撰び置き、板本尊」はいいです。「及び戒壇堂の額御真筆あり」これはちょっとおかしいですね。その次に、「次の五人の門弟叡山に入りて授戒せし僧ありと云えり、この源は五人の伝教を祖師と云えるによって誤るなり」、とこう結んでおります。だから、五人の方で勝手に天生山があって板御本尊も持っておる、あるいは戒壇堂の額も持っておるとこう言ったと。そのためにまた五人の人々は叡山に入って授戒したという僧あり、とも言ってると。だからこの源は五人が伝教を祖師と言った。天台の沙門と言った。そういうところから、こういう迷いが来たんだろうと言っておりますが、この文面がはっきりわかりません。また、真書が無いが、「要集」に出ております。だからその点はもう一ペんよく再検討しなけりゃなりませんが、どうもその意味は、板御本尊及び戒壇堂の額御真筆あり、というところからくると、あまり信用ができないと思います。
大日蓮昭和45年9月号 日達上人御指南 昭和45年6月28日 富士学林研究科の砌
御歴代上人の御著作に「天母山築壇説」を正当と裏付ける文証を見いだせなかった浅井昭衛は、明治時代に刊行された「御宝蔵説法本」を〝切り札〟にしようとした
浅井昭衛は明治45年に宗門とは関係のない、山田善兵衛という一個人が出版した「日蓮正宗 御戒壇之由来」を「天母山築壇説」を正当と裏付ける〝切り札〟的文証として示しました。
冨士312号 / 平成2年5-6月号より
明治四十五年に刊行された御宝蔵説法本には次のごとく示されている。
「此の大石寺より東の方、富士山の麓に天母原と申して曠々たる勝地あり、茲に本門戒壇御建立ありて」と。 「大石ヶ原」と「天生原」を〝同一地〟という誑惑を、一言にして破る明文ではないか。
冨士312号 / 平成2年5-6月号
「日蓮正宗 御戒壇之由来」の画像は次の通りです。
「大石寺より東の方」と表現することで「大石寺」とは異地の「天母原」即「天母山」が戒壇建立の勝地と述べていることになります。この明治45年に刊行された御宝蔵説法本「日蓮正宗 御戒壇之由来」は、一見日蓮正宗公認の出版物のような感を受けますが、実は「山田善兵衛」という一個人が出版したものです。「山田善兵衛」とはいかなる人物かよくわかりませんが、「天母山築壇説」という謬論を信じていたのではないかと推定されます。
ほぼ同時期といってもいいのではないかと思いますが、大正8年に日應上人が「本門戒壇の縁由」を出されています。
「本門戒壇の縁由」の画像は次の通りです。
天皇陛下より勅詔を賜はり富士山の麓に天母が原と申す嚝々たる勝地あり茲に本門戒壇堂建立有て・・・
本門戒壇の縁由 潜龍閣発行
末文に「総本山五十六世日應判」と示されております。〝判〟の重みにより「日蓮正宗 御戒壇之由来」が謬論であることが再確認されます。この日應上人の「本門戒壇の縁由」は、冨士109号にも掲載されています。
浅井昭衛は次の通り、日応上人は「本門戒壇の縁由」と名付けられた「御宝蔵説法本」を広く宗内に頒布せられたと述べています。
私見になりますが、この日応上人の御判断は、「天母山築壇説」の山田善兵衛著「日蓮正宗 御戒壇之由来」を破折されるためだったのではないか、と推察します。
「御宝蔵説法」とは、御開扉のおり歴代御法主が戒壇の大御本尊のいわれを御説法下されるもので、日応上人(第五十六代)はこれを活字にして広く宗内に頒布せられた。
冨士250号 / 昭和63年8-10月号
浅井昭衛は直接的に「天母山築壇説」を主張しなくなったものの顕正会の「天生原築壇説」において「天生原の中心は天母山であり、大石ヶ原は含まず」という謬論でもって今日に至っている
細井管長は、「天生原」とは大石寺のある「大石ヵ原」であるとこじつけた。(中略)大石寺より東方4キロの小高い岡が「天母山」であり、その麓に広がる曠々たる勝土が「天生原」と呼ばれてきた。このように「大石原」と「天生原」は場所が異なるから、地名も異なったのである。
冨士312号 / 平成2年5-6月号
相伝の「天生原」=「大石ヵ原、天母山を含まず」
浅井の「天生原」=「天母山を中心とした裾野で、大石ヵ原を含まない」(浅井もかつては「天生原=「大石ヵ原」としていました 当ブログ「国立戒壇破折 その〝致命的欠陥〟」をご参照ください)