浅井昭衛の「天皇観」とは?
浅井昭衛は三大秘法抄の「国主」を天皇のみと断定
浅井昭衛は三大秘法抄の「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して」の御文の「王」を「天皇」であるとし、「国立戒壇」建立には国主である天皇の「勅宣」がかならず必要だとしています。
しからば本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに「無辺行・日興上人の垂迹・本化聖天子」と。
(冨士139号 / 昭和50年3月号)
「勅宣」とは国主たる天皇陛下の詔勅、「御教書」とは当時幕府の令書、今日においては国会の議決がこれに相当しよう。 (冨士252号 / S59年12月号)
三大秘法抄の「国主」は天皇であるとは限らない
時代相により天皇が国主であった時代は当然天皇が国主であったが、現憲法下における国主は「国民の総意」であり、天皇の地位は「国民統合の象徴」で国主とはいえません。天皇がいつの時代も国主であるとは言い切れないのです。そのことを、六十五世日淳上人は次のように御教示されています。
勅宣は国主の『みことのり』で御教書とは当時将軍の令書であります。此れは国政の衝に当る人より出る教詞と解すべきであります」 (淳全488頁・「三大秘法抄拝読」)
六十六世日達上人も、天皇が国主であるとは決まっていないと仰せられています。
広宣流布の聖王は即ち広宣流布の時の聖王は転輪聖王であるのでございます。必ずしも今の天皇陛下が建立主となるべき時の天皇とはきまっておらない」
(大日蓮・昭和34年9月号)
なぜ浅井昭衛は三大秘法抄の「国主」を天皇のみと断定するのか?
国柱会・田中智学の思想が浅井昭衛の骨の髄まで浸透しているが故と断定できます。浅井昭衛の「国立戒壇論」と田中智学の「国立戒壇論」が著しく類似しており、浅井昭衛が田中智学を師匠と仰ぐごとく感化されたことは「浅井昭衛は田中智学の〝遣使還告〟の重大なる立場!?」で説明させていただきました。ご参照ください。
田中智学も三大秘法抄の「国主」を天皇のみと断定しています。
御書には「勅宣並に御教書を申し下して」とある。勅宣とは戒壇建立の大詔である。御教書とは院または関白将軍などから下さるゝ文書をいふので、鎌倉時代では幕府の下文である。今日の時代でいはゞ、国会の議決ともいふべきものである。
(日蓮主義教学大観第四)
わが萬世一系の天皇陛下が此大法に帰して、戒壇建立の願主として、勅掟を下したまふ。
(日蓮主義教学大観第四)
浅井昭衛が天皇を貴ぶのは〝万世一系の血筋〟であるから
浅井昭衛は「天皇の天皇たる所以(ゆえん)は能力とか人格とかではなく、神武天皇から脈々と続く血統・血筋」と主張
浅井昭衛がこのように主張するのは、やはり、田中智学に感化されているからです。国主としての天皇に求められることは「日蓮大聖人の仏法」を保つことです。しかし、浅井昭衛は「天皇の天皇たる所以は能力、人格、(正法への信仰心)とかでなく、神武天皇から脈々と続く血統・血筋「と主張しています。
もし女系天皇を認めれば、その時から、万世一系ではなくなってしまうのです。皇室の血筋が変質してしまう。やがてそれは、皇室の滅亡につながる重大事なのであります。(中略) 日本の皇室は世界に例を見ない存在です。なんと2665年、125代にわたって、連綿と続いている。しかも初代の神武天皇以来、男系の天皇だけで引き継がれて来たという、まさに世界に例がない家系なのです。(中略) 天皇の天皇たる所以は何かというと、能力とか人格とかではない。(中略)天皇の天皇たる所以は、実に血統によるのです。神武天皇から脈々と続く血統・血筋にあるのです。
(顕正新聞・平成18年1月15日号 平成17年12月18日日曜勤行)
よその国はいざ知らず、日本は世界の中でも独特な国で、二千数百年続いた万世一系の天皇が国主である、という国柄なんです。そのゆえは、日本が三大秘法有縁の妙国であり、この大法を守護すべき使命を持つ王法が、日本の皇室だからであります。
(顕正新聞・平成20年3月5日号 平成20年2月26日2月度総幹部会)
田中智学の天皇観とは
田中智学は、「万世一系の天皇が世界統一の天命を負うている」と主張しています。
日本国の王統が此神統であって、世界統一の天命を負ふて居るものじゃといふことは、蓋し吾々人類の頭上に於ける、尤も大なる問題である。
(世界統一の天業)
此萬世不動の王統といふことが、世界統一の上に於て、重大の価値あることを悟らなければならぬ。
(世界統一の天業)
誤った師・浅井昭衛を捨て、正法に帰依することが顕正会員にとって一番大事なこと
顕正会員の皆さんは、師である浅井昭衛が田中智学に感化された誤った「天皇観」をもっていることを理解されたと思います。
大聖人は次のように御教示されておられます。
法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざわひなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし。
(曽谷殿御返事・平成新編1039頁)
「法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師」とは、大聖人、大聖人から唯授一人の血脈相承を受けられた日興上人以下日目上人、日道上人、日行上人・・・御当世・日如上人のことです。御法主上人に信をとることが根幹です。「師なりとも誤りある者」とはまさしく浅井昭衛のごとく道を外れた者です。「師なりとも誤りある者」は捨てなければいけません。「余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざわひなるべし」すなわち「堕地獄の要因」となります。
