「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の〝奇異〟

顕正会の邪論
  1. 昭和45年3月に「諌暁書」を宗門に提出し、宗門攻撃を開始する
    1. 「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」(諌暁書)は、日達上人の「相伝」による御指南を否定し、浅井自身の「御書根本」の〝会通〟が絶対とした〝邪論〟
      1. 「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」に〝理解不能〟〝奇異〟な項目あり
      2. 極めて〝理解不能〟〝奇異〟な項目とは「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」の二点
      3. 「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」は、御先師上人の「御筆記(御著作)」に見られたものでなく、説得性のない〝伝聞〟によるとしている
      4. 浅井昭衛は伝聞(口伝え)は信用できないと主張しているが・・・
      5. 日達上人の「相伝」による御指南を否定したのは、浅井は「御書全編」「御歴代の御筆記」の〝文書〟の真意を会通できたからと言っていたが・・・
      6. 日蓮宗も「事の戒壇は本化聖天子の発願による」という浅井説は、先師の「文証」をあげていない〝でっち上げ〟と嗤う
  2. 浅井昭衛は、「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」が正論であることを証明するために、「本門戒壇についての先師上人の御指南」から「文証」を明示する必要がある
      1. 「御書全編」「御歴代の御筆記」の〝文書〟でもって〝仏法の極意〟を会通でき得たのならば、「文証」を示せて当然である
      2. 「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」で日寛上人が「天母山」築壇説をとられているとして示した「文証」は、日寛上人の説ではなく、要法寺日辰の邪説を紹介したもの
        1. 日寛上人は御著作において「天母山」築壇説をとられていない
        2. 「日忠聞記」とは第三十世日忠上人の「観心本尊抄聞記」のこと 冨士宗学要集第2巻(昭和11年)発行に明確な〝文証〟あり
        3. 日東上人も同様に〝尤(もっと)も辰抄の如きなり〟と御記述されておられる
    1. 浅井昭衛の「天母山築壇説」は〝トリック〟にすぎない

昭和45年3月に「諌暁書」を宗門に提出し、宗門攻撃を開始する

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」(諌暁書)は、日達上人の「相伝」による御指南を否定し、浅井自身の「御書根本」の〝会通〟が絶対とした〝邪論〟

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」に〝理解不能〟〝奇異〟な項目あり

 浅井昭衛が昭和45年3月に宗門に対して「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」という自称「諌暁書」提出をもって、「御遺命守護の戦い」という宗門攻撃を始めます。
 その行動に至った「背景」「相伝よりも浅井自身の〝悟り〟を優先させた経緯」は、当ブログ「浅井昭衛・正法逸脱の“原点”」で詳細に説明させていただきました。
 このコンテンツでは、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の内容において、突出して〝理解不能〟、きわめて〝奇異〟な項目を取り上げ、この「諌暁書」を提出した浅井センセーにその説明を求めたいと思います。浅井センセーは、日達上人が「池田の権力を恐れ、法主として誤った指南をした」と一信徒にすぎない分際で御法主上人の尊厳を踏みにじったのですから、自説を「正当」と誰人も納得でき得る説明責任があってしかるべきです。

極めて〝理解不能〟〝奇異〟な項目とは「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」の二点

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」において、極めて〝理解不能〟〝奇異〟な項目二点は次の通りです。

〇 順縁広布の時には、仏法有縁の本化国主必ず皇室に誕生して、真の王仏冥合となると拝する。かかる重大事は日興上人一人への御口伝に違いない。(中略)本化国主とは誰人なるか。先師上人の伝えを聞き奉るに「無辺行・日興上人の垂迹・本化聖天子と。そしてその時、「御座主は日目上人」と。

〇 二祖日興上人の御遺命厳として、天母山をついさして定め給うと聞き奉る。(中略)寛尊・本尊抄の講義に云く、「順縁広布の時は富士のふもと天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を立て岩本に二王門を立つ等なり」(忠師聞記)と。

富士139号「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」

「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」は、御先師上人の「御筆記(御著作)」に見られたものでなく、説得性のない〝伝聞〟によるとしている

 一目でお判りかと思います。この二点は、御先師上人の「御歴代の御筆記(御著作)」に見られたものではなく、「聞き奉る」という説得性に欠く〝伝聞〟から判断したとしています。

浅井昭衛は伝聞(口伝え)は信用できないと主張しているが・・・

 浅井昭衛は次の通り、伝聞(口伝え)は信用できないと主張しています。浅井自身に都合がいい場合には、「聞き奉る」という「伝聞」(口伝え)、「かかる重大事は日興上人一人への御口伝に違いない」という「推定」も「信憑性あり」ということになるのでしょうか。

「金口嫡々」ということは、俗にいう〝口伝え〟などということではないのです。もしそういうものだったら、長い年月の間には変化してしまうじゃないか。     

顕正新聞平成5年1月5日号

日達上人の「相伝」による御指南を否定したのは、浅井は「御書全編」「御歴代の御筆記」の〝文書〟の真意を会通できたからと言っていたが・・・

あまりにもいぶかしい。この上は大聖人に聞き奉り、歴代先師上人の御指南を拝する以外になしと、改めて御書四百余編を、満身の毛穴から汗の吹き出る思いを以て拝読した。御本仏の聖意は炳焉(へいえん)であった。また日亨上人の苦心収取の御歴代の御筆記を拝するに、法水(しゃ)(びょう)の相伝家の有難さ、本門戒壇についての先師上人の御指南は、一糸乱れず異口同音であった。かくて見れば、まさにいま七百年来の大事の御遺命が、あろうことか時の法主の権威を以て、曲げられんとしているではないか。

冨士250号

 浅井昭衛は日達上人の「相伝」による御指南を否定する〝口実〟として、「御書四百余編」「本門戒壇についての先師上人の御指南」を「満身の毛穴から汗の吹き出る思いを以て拝読し」「御遺命が、あろうことか時の法主の権威を以て、曲げられんとしている」ことを〝会通〟したという理論武装をしました。「御書根本」「文書根本」ならば、出所が不明の伝聞(口伝え)でなく、「本門戒壇についての先師上人の御指南」を以て、「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」の二点が正論であることを主張すべきであったのですが、「本門戒壇についての先師上人の御指南」にはこの二点が正論と裏付け得る「文証」が見当たらなかったために、「伝聞(口伝え)による判断」としたものと結論付けたいと思います。

日蓮宗も「事の戒壇は本化聖天子の発願による」という浅井説は、先師の「文証」をあげていない〝でっち上げ〟と嗤う

 浅井センセーは“不相伝”の日蓮宗に嗤われてしまいました。恥ずかしい限りです。日蓮宗が「事の戒壇は本化聖天子の発願による」という浅井説に〝太刀を入れた〟のは次の論述です。

明確な先師の明文を文証として挙げていない。しかも、「かかる重大事は日興上人一人への御口伝に違いない」などとして、根拠の薄弱さを露呈している。(中略)このような「王仏冥合」「勅宣」の解釈は、浅井氏独自のものだと考えるべきである。

現代宗教別冊「日蓮正宗妙信講の新宗教化の過程

浅井昭衛は、「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」が正論であることを証明するために、「本門戒壇についての先師上人の御指南」から「文証」を明示する必要がある

「御書全編」「御歴代の御筆記」の〝文書〟でもって〝仏法の極意〟を会通でき得たのならば、「文証」を示せて当然である

 「御書四百余編」「本門戒壇についての先師上人の御指南」を「満身の毛穴から汗の吹き出る思いを以て拝読し」し、日蓮大聖人の〝仏法の極意〟が会通でき得たのならば、「事の戒壇は本化聖天子の発願による」「事の戒壇は天母山に立つべし」の二点が正論であることを「本門戒壇についての先師上人の御指南」中から、易々と、正論であることを証明する「文証」を明示できて当たり前のことです。センセー、できますか? それができないのならば、浅井自身のこの「二項目の戒壇義」を正当な主張と見せかけるために、意味不明の「伝聞(口伝え)による判断」としたのでしょう。まさに「詐欺師の手口」です。

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」で日寛上人が「天母山」築壇説をとられているとして示した「文証」は、日寛上人の説ではなく、要法寺日辰の邪説を紹介したもの

日寛上人は御著作において「天母山」築壇説をとられていない

 日寛上人は、次の引用の通り、「天母山」築壇説をとられていません。

事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。

報恩抄文段 下末   日寛上人・御書文段 469頁

「日忠聞記」とは第三十世日忠上人の「観心本尊抄聞記」のこと 冨士宗学要集第2巻(昭和11年)発行に明確な〝文証〟あり

 浅井昭衛のいうところの「日忠聞記」とは「観心本尊抄聞記」のことで、冨士宗学要集第2巻(昭和11年)発行に掲載されています。閲覧されたい方は「国会図書館デジタルコレクション」で確認できます。「国会図書館デジタルコレクション」による「観心本尊抄聞記」を参照してください。

「観心本尊抄聞記」より

順縁広布の時は富士のふもと天生山に戒壇堂を建立し六万坊を立て岩本に二王門を立る等なり、最も辰抄の如く可なり云々、

冨士宗学要集第2巻(昭和11年発行)361頁

最も辰抄の如き可なりと述べられ、「天生山」築壇説は要法寺系で造仏家の日辰の言葉によるものであり、本宗の教義ではない、と明らかに仰せである。日寛上人は御著作において「天母山」築壇説を御指南されていない
 

日東上人も同様に〝尤(もっと)も辰抄の如きなり〟と御記述されておられる

第二十九世日東上人の「観心本尊抄聞書」にも、次の引用の通り、日忠上人と同様に〝(もっと)も辰抄の如きなり〟と、「『天生山築壇説』は要法寺系日辰の説」と御記述されておられます。

順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、(もっと)も辰抄の如きなり

観心本尊抄聞書

浅井昭衛の「天母山築壇説」は〝トリック〟にすぎない

 浅井昭衛は、御歴代上人が「天母山築壇説」をとられていないことを知りながら、このような〝トリック〟を用いたのです。詐欺師特有の〝手口〟です。

 御歴代上人は代々「天生原」築壇説をとられてきました。なぜ「天生原」築壇説をとられてきたのか。「天生山」築壇説の誤りは何かは、当ブログ「国立戒壇破折 その〝致命的欠陥〟」で述べさせていただいています。ご参照ください。

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