清流への誘い

妙縁寺で〝ニセ本尊〟の授受はあったのか!?

「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」は宗門の公式見解により〝ニセ本尊〟であることが確定

宗門の公式見解

 浅井は、松本日仁が妙縁寺を退出(昭和52年4月30日)する前に松本日仁より「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」を譲り受けたと主張していますが、宗門は公式に「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」を妙縁寺で印刷、発行した事実はないとしています。「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」は、御法主上人のお認めがない、当然「開眼」もいただいていない〝ニセ本尊〟です。

顕正会は「松本日仁師から託された」と称して、ニセ本尊を発行していますが、かつて妙縁寺で御形木御本尊を印刷し、発行した事実はありません。

顕正会Q&A(96頁)

「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」が〝ニセ本尊〟であることは、当ブログの別のコンテンツにその詳細を記述していますので参照してください。

浅井も本尊の「開眼」が必要と指導

 浅井も次のように本尊の「開眼」が必要なことを会員に教えています。「開眼」なき「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」は〝ニセ本尊〟です。「活眼」と「開眼」は同意です。

御本尊七箇之相承にも聞えるごとく、御本尊を書写・活眼遊ばすお立場は、正しく「代々の聖人ことごとく日蓮」であらせられる。なればこそ嫡々代々の御本尊に御利益があられるのである。 

冨士271号(昭和61年8月号)79頁

妙信講解散処分後の動向

浅井は妙信講破門後は妙縁寺に立ち入れなかったと証言

 浅井は、令和年3月度11総幹部会で次のように述べています。 

この解散処分は、信徒団体にとってはまさに死罪に等しいものです。そうでしょ。その処分内容はどういうものかというと――本山登山は禁止する。御本尊の下附はしない。葬儀に僧侶を派遣しない。妙信講が所属する末寺妙縁寺には出入を禁ずる――というものであった。これで命脈を保てる信徒団体はあり得ない。

顕正新聞 令和3年12月5日号

顕正新聞令和3年12月5日号より

妙信講解散処分後の時系列動向

 浅井は「妙信講が所属する末寺妙縁寺には出入を禁ずる」という処分は、一般講員に対するもので、松本日仁の警備や特別な用があるものは出入りしていたと、話をはぐらかすかもしれません。
 はたして、浅井が言うように妙縁寺において「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」という〝ニセ本尊〟の授受があったのかという検証を、当時のことを記述した冨士、顕正新聞、大日蓮、山崎正友氏の手記等で、時系列的にしてみたいと思います。

11月18日午前6時30分、(中略)創価学会の青年部5、60名に守られて宗務院の阿部・藤本、支院長の高野、そして新しい住職・副住職と称する二人がなだれこんで来た。(中略)住職室にある松本御能師の家財道具を乱暴に二階の小部屋にドンドン運び入れた。(中略)住職室にはもう新任の住職・副住職の二人と学会の弁護士4人が入っているのです。

冨士昭和49年12月号

当時の〝状況証拠〟を読み解くと、妙縁寺での〝ニセ本尊〟授受は不可能

 

浅井は、妙縁寺での〝ニセ本尊〟授受は不可能とする〝状況証拠〟を払拭できる証拠を示せるのか

 上記の〝状況証拠〟は動かしがたいものです。それでも、浅井が「日布上人の大幅の形木本尊」「形木の導師曼荼羅」を松本日仁より手渡しされたと主張したいのなら、状況証拠を払拭する明らかなる証拠を示すことが必要になります。本尊の「授与願い」「受書」は当然のことながら残っているはずでしょう。「授与願い」「受書」を即刻、顕正新聞一面に掲載するべきです。それができず、沈黙のままでいるのならば、〝ニセ本尊〟作成は浅井の単独犯であることが確定します。
 浅井の〝親衛隊〟である教学部員は日蓮正宗僧俗より〝ニセ本尊〟に追及を受けても何の返答もできずに逃げ回るだけです。彼らを守るという意味でも、〝ニセ本尊〟作成の真実を語ることが浅井センセーの「最後に申すべきこと」です。

〝ニセ本尊〟を拝する顕正会は〝ニセ教団〟

 ニセ本尊を拝する顕正会は〝ニセ教団〟です。功徳など戴けません。顕正会員さんは、一日でも早く、正しい本尊を拝せる「富士の清流」たる日蓮正宗に帰依するべきです。

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